島の大部分は地中海性気候であり、温暖である。海との距離によって空気も湿潤であり、冬も気候は穏やかである。山岳部では11月から5月にかけて降雪がみられ、山頂では一年を通じて雪を戴いているが、低地での降雪はまれであり、降ったとしても積雪することはまずない。2004年2月には大寒波が襲来し、全島にわたって積雪したことがあるが、これは非常にまれな事例である。夏季には、日平均気温が20度台後半から30度台前半で推移するが、最高気温は30度台後半から40度台前半に至ることもある。
島の南側の沿岸部では北アフリカの気候区分に属し、一年を通じて日照時間は長く、高温である。ナツメヤシが実を結び、ツバメもアフリカへの渡りを行わずに一年中留まる。島の東南部のイエラペトラなどでは、冬季に温室で夏の野菜や果物を生産している。 人口1万人以上の都市には以下がある。 クレタ島最大の都市は、首府である中部のイラクリオである。この町は歴史上カンディアとも呼ばれた。西部のハニアがこれに続く。このほか、人口1万人以上の都市には、中西部のレティムノ、東部のアイオス・ニコラオスやイエラペトラなどがある。主要都市は北岸(クレタ海側)に集まっており、南岸(リビア海側)に位置するのはイエラペトラのみである。イエラペトラは「ギリシャ最南端の町」であるとともに、「ヨーロッパ最南端の町」ともされる。 クレタ島はヨーロッパにおける最初の文明のひとつであるミノア文明が栄えた。当時の社会については、伝えられるべき文字が遺されなかったため、遺構から類推するよりほかないが、平和で開放的であったと考えられている。ミノア期の遺跡には、壮麗な石の建築物や複数階の宮殿があり、排水設備や、女王のための浴場、水洗式のトイレがあった。水力を動力とする仕組みに関する技術者の知識はとても高度なものであった。エジプトなどとの交易によってもたらされた遺物から、ミノア文明は、紀元前3000年頃からクノッソスが衰退した紀元前1400年頃ごろまで栄えたと考えられている。 その当時クレタ島で使われていた言語はミノア語であると考えられている。ミノア語はアルファベットとは異なる象形文字を持ち、これを線文字Aと呼ぶ。線文字Aはいまだ解読されていないが、後世に書体が簡略化された線文字Bは1952年、マイケル・ヴェントリスによって、ギリシャ語である事が判明した。またミノア語からはクレタ語と呼ばれる言語が派生したと考えられているが、現在は死語であり、資料も地中海沿岸で発見されたものがわずかにあるだけで、これについて分かっていることは非常に少ない。 ギリシャ各地にポリスが出現していた時代のものとして、クレタ島ドレロス
主要な都市
イラクリオ (イラクリオ県イラクリオ市) - 130,914人
ハニア (ハニア県ハニア市) - 53,373人
レティムノ (レティムノ県レティムノ市) - 27,868人
イエラペトラ (ラシティ県イエラペトラ市) - 11,678人
ネア・アリカルナソス (イラクリオ県イラクリオ市) - 11,551人
アイオス・ニコラオス (ラシティ県アイオス・ニコラオス市) - 10,080人
イラクリオ市街
ハニアのヴェネツィア港
イエラペトラのモスク跡
歴史詳細は「クレタ島の歴史」を参照
ミノア文明
ポリス時代
クレタ島のポリス時代には、他のギリシャ各地とは異なる点が多々ある。
クレタでは葬制および宗教的慣行について、他のギリシャ各地とは異なり、暗黒時代から前古典期までの連続性がみられる。
祭祀が行われた場所は洞穴や山頂など野外であり、神殿のような建造物が少なかった。このことは神殿をアクロポリスに建設し、これを中心に人々が集まってポリスを形成していった他のギリシャ各地と異なっている。前8世紀末から前7世紀にドレロス、ゴルテュス(ゴルテュン)、プリアニスでも神殿が建てられていくが、他の地域の神殿とは構造上の違いがある。)
中央部ギリシャで考古学上の痕跡としてみられる、前8世紀に起きた社会の再編成が、クレタ島にはそのような現象が起きていない。
クレタ島史の研究に際しては、前6世紀を通じて考古史料が激減しており、前6世紀初頭の解明が重要な課題とされている。南クレタの都市国家ゴルテュンでは都市の法律が誰もが目にする公共広場アゴラのわきにある壁の一面に刻まれていた。このゴルテュン法典はクレタその他の南の島々で使われたドーリア方言で書かれた。壁の碑文は、人が立って読むのにちょうどよい高さ1.5メートルくらいの位置に横幅9メートルにわたって刻まれた。全部で600行からなり、商業や契約に関する法も記されていたが、大半は私法的規定である。 紀元前27年、現リビアのキレナイカ地方とあわせて、ローマ帝国がキレナイカ属州を設置。ローマ帝国の東西分裂後は東ローマ帝国 が領有を継承した。 5世紀ごろ、キリスト教の布教が始まる。7世紀末 - 8世紀、クリトのアンドレイが主教を務めた。 824年、イベリアのイスラム教徒が侵入。カンディア (Candia、現在のイラクリオン) を建設し首都とする。
古代ローマ帝国から中世へ
イスラム勢力の統治詳細は「イスラーム期のクレタ」を参照