クルド人
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ヒツジの飼育と農業を生業とする半遊牧生活を送る。定住生活を営むようになってからの歴史は浅い。伝統的な居住地は、トルコ南東部および東部であったが、オスマン帝国後期に、コンヤ、アンカラ、クルシェヒール、アクサライなどの内陸アナトリア地方に移住させられた部族もあり、これらは、今日、中部アナトリア・クルド人 (トルコ語:Orta Anadolu Kurtleri、クルド語: Kurden Anatoliya Navin)と呼ばれている。また、共和国期には、経済的、社会的な理由による自発的な移住のほか、反乱の結果としての強制移住も行われ、クルディスタン労働者党による武装闘争の開始後、特に1990年代、治安悪化を理由に、イスタンブール、イズミル、アンカラ、アダナ、メルスィンなどのトルコ国内の大都市や国外に移住するもの数は増加した[2]。今日、トルコで最大のクルド人口を抱える都市はイスタンブールであり、2007年の時点で約190万のクルド系住民が居住している[3]

オスマン帝国の主たる後継国家であるトルコでは、共和人民党政権が単一民族主義をとったため、最近までクルド語をはじめとする少数民族の放送・教育が許可されてこなかったが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}これがクルド人としての統一したアイデンティティを覚醒させることとなり[要出典]、クルド人独立を掲げるクルド労働者党(クルディスタン労働者党)(PKK。トルコ及び日本政府はテロ組織と見なしている)はゲリラ攻撃を行なったので、1995年トルコ軍が労働者党施設などを攻撃、イラク領内にも侵攻し、イラク北部の労働者党拠点を攻撃した。イラクもこれに賛同して、自国のクルド人自治区に侵攻したが、武装解除問題を抱えていたことから、米軍の攻撃を受けることとなる。

しかし、欧州連合 (EU) 加盟を念願するトルコに対して、EU側がクルド人の人権問題を批判して難色を示したことより、トルコが軟化してトルコ国内のクルド人の扱いはやや好転しつつある。ただし、トルコ軍への徴兵を拒否しているクルド人の良心的兵役拒否を認めず、軍刑務所へ収監されるなどしており、欧州連合欧州評議会欧州人権裁判所から非難されている[要出典]。

2006年5月24日、イスタンブールのアタテュルク国際空港貨物用施設で大規模な火災が発生した。原因は漏電と伝えられている。翌日、クルド人の独立派武装組織「クルド解放のタカ」が犯行声明を出した。この組織はクルド労働者党との関係があると指摘されている。

2007年の国会総選挙では、定数550に対し、クルド人候補は過去最高の20?30議席前後を獲得した。

2009年12月11日、憲法裁判所は、クルド人中心の民主社会党(DTP)の活動禁止を決定した。そして、党首を含む二人のDTP 議員を国会から追放するなどの措置をとった。この決定直後に、欧州連合(EU)は公党の禁止措置は有権者の権利を奪うものだと主張、当局の民主的な対応を求めた。14日、同国のエルドアン首相は、「問題があるのであれば、個人を罰するべきで、党そのものを禁止してはいけない」と憲法裁判所の決定を批判した[4]。17日、トルコ政府は、上記の憲法裁判所の決定にもかかわらず、国内のクルド人の権利拡大政策を継続することを明らかにした[5]

2015年6月の総選挙では、エルドアン大統領系与党政党が過半数をとれず258議席にとどまった[6][7]。一方、クルド系の国民民主主義党(HDP)が世俗派のトルコ市民、リベラル派、左派からも支持を得て全体の10%以上の79議席を獲得した[8]
イラクイラク、ザーホーのクルド人。1910年代詳細は「クルディスタン地域」、「イラクのクルド人(英語版)」、「第一次クルド・イラク戦争(英語版)」、および「第二次クルド・イラク戦争(英語版)」を参照

イラクはトルコに次いでクルド人が多く居住しており、北部をクルディスタン地域としている。サッダーム・フセイン大統領により、少数民族クルド人は長らく迫害を受けてきた。クルド文化を否定するためクルド人は外部からの移住者と教育、クルドの遺跡発掘、調査を禁じた。

特に、イラン・イラク戦争では、敵国に荷担したという疑いから、クルド人に対して化学兵器で攻撃したとして、イラクは国際的な非難を浴びた(ハラブジャ事件)。一方で、クルド独立闘争を行っていたムッラー・ムスタファ・バルザーニー(英語版)が属するバルザーニ部族と対立していたベルゼンジ部族などの部族はイラク政権に協力した[9]

2003年からのイラク戦争によってフセイン政権が崩壊すると、クルド人は米軍駐留を歓迎した。その後、更なる独立権限を持ったクルド人自治政府の設立を占領当局に呼びかけたが、占領当局は自国内にクルド人を抱えるトルコに遠慮し、実現には至らなかった。

2005年イラク移行政府では、クルド愛国同盟を率いたジャラール・タラバーニが大統領に選出され、副大統領をシーア派などから選出したことで、政権の民族バランスが図られた。しかしクルド人がは政権内で少数派であることには変わらなかった。

2017年9月25日には国際社会が反対する中、独立住民投票が自治政府により実施されている。イラクのクルド人地区については、クルディスタン地域も参照のこと。

イラク国内でのクルド人は家族が宗教に反する行為を行った場合に激しく虐待行為を行い殺害まで至っているとして、国際連合(国連)が懸念の声を上げている。2007年4月7日にはイラク北部地域でムスリムの男性と駆け落ちするためにヤズディ教からイスラム教に改宗したとして、17歳の少女が家族らによってリンチを受け虐殺されている映像がインターネット上に公開され、問題となった(名誉の殺人#批判を参照)。
シリア2019年10月時点での国内相関図詳細は「ロジャヴァ」および「シリアのクルド人(英語版)」を参照

北部地域に少数のクルド人が在住している。

2011年から続くシリア内戦の長期化によってアサド政権の影響力が低下し、ロジャヴァ(西クルディスタン地域)を中心に活動するクルド人民防衛隊(YPG)を含めた各武装勢力の活動が活発化した。2013年からロジャヴァは事実上のクルド人独立地域となっているが、YPGがアサド政権打倒を目指す反体制派に与しない中立的立場維持の戦略を採ったこともあり、アルカイーダ系反政府勢力やIS(イスラム国)との戦闘を優先するシリア政府からは事実上黙認されている状態となった。

2014年以降はシリア北東部でIS(イスラム国)が急速に支配地域を拡大したことにより、コバニアイン・アル=アラブ)では反乱勢力(自由シリア軍)と、カーミシュリーハサカなどではシリア軍アサド政権)と、クルド人勢力の共闘が見られた[10]

2015年以降はアメリカや英仏独を後ろ盾とするシリア民主軍に参加した。しかし、シリア内戦最大の激戦となったアレッポの戦い (2012-)では欧米が支援する反体制派ではなくアサド政権側に協力するなど、欧米とアサド政権(及びその後ろ盾であるロシア)双方との関係維持を目指す独自の動きを見せていた。

2017年後半から2018年前半にかけ、イスラム国の崩壊や、アサド政権によるダマスカス近郊及び南部地域の反体制派制圧などが相次ぎ、主要な戦闘地域はイドリブを中心としたシリア北部に移った。このことはクルド人を巡る状況にも大きな変化もたらした。

クルド人勢力の影響力拡大を嫌ったトルコは、シリアに対して本格的な越境攻撃を繰り返した。一方、それまでクルド人の後ろ盾となっていた欧米は、それらトルコのシリア北部への攻撃を黙認した。そしめ2018年末にはトランプ大統領がアメリカのシリアからの撤退を示唆するに至り、YPGはアサド政権に軍事支援を要請することとなった。南西部で反体制派の制圧を成功させたことで戦力に余力が出来ていたアサド政権はYPGの要請に応えて援軍派遣を決定した。このことでクルド人勢力とアサド政権が急速に接近した。またそれに伴いってロシアを仲介として、YPGが制圧した反体制派支配地域のアサド政権への移譲と、その見返りとして、PYDによるロジャヴァの自治承認を求める交渉が行われた。

2019年8月にはアメリカとトルコは、シリア北部に安全地帯を設けることを目指すことを合意した。しかし10月6日、アメリカ政府はYPGを標的にしたトルコによる越境軍事作戦については関与しないと声明を出し、YPGを支援するためシリアに駐留していたアメリカ軍は撤退を開始した[11]


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