戦後、1946年にキージンガーはキリスト教民主同盟(CDU)に入党し、法学部の学生に個人教授をし[3]、1948年には弁護士として活動を再開した。1948年、ヴュルテンベルク=ホーエンツォレルン州CDUの幹部に就任した[3]。キージンガーの選挙ポスター (1961年)
1949年に第1回ドイツ連邦議会選挙に立候補し、当選する[3]。1951年 CDU幹部会員となる。1954年から1959年まで、連邦議会外交委員長[3]。1956年から1958年まで欧州議会議員を兼任する[3]。同時期の1955年から1959年まで、欧州評議会副議長も務める。CDUの重鎮であり、彼の知名度とは裏腹にいつまでも閣僚ポストを与えられないことに不満を持ち、連邦政府から州政府への転身を決意する。1958年12月17日にバーデン=ヴュルテンベルク州首相に就任し[3]、1966年12月1日まで務める。当時は州議会議員も兼任していた。1952年に成立したばかりの同州の安定化を図り、コンスタンツ大学(1966年)とウルム大学(1967年)を新設するなどの功績をあげた[3]。その間、1962年から1963年10月31日、連邦参議院議長を務める。州首相時代のその他の功績としては、州内の完全雇用を達成し、生活水準の向上や、療養施設の拡充に力を入れていた[3]。また、ボーデン湖の水質問題にも取り組んだ[3]。
当時は州レベルでの大連立が珍しくなかったため、キージンガーは1960年までCDU、SPD、FDP/DVP、BHEの連立を率いていたが、その後1966年まではCDU、FDP連立となった。1961年4月15日、BHEは解散した。
第3代首相リンドン・ジョンソンと握手するキーシンガー、その後ろのディーン・ラスク、ヴィリー・ブラント
キージンガー政権前のエアハルト政権時代、西ドイツの経済成長は停滞し、景気後退もあってマイナス成長となっていた[5]。西ドイツの1967年のGNPは、前年比で0.3 %ダウンし、失業者も1966年末には、50万人を超え(これが1967年2月になると67万人に急増)、国家財政も赤字であった[5][6][7]。また、極右のドイツ国家民主党が1966年11月のヘッセン州議会選挙で、7.9 %の議席を、バイエルン州議会選挙では7.4 %の議席を獲得しており、社会不安が増大していた[8][7]。
1966年キリスト教民主同盟(CDU)・キリスト教社会同盟(CSU)及び自由民主党(FDP)の連立内閣からFDPが閣僚を引き上げて崩壊した際、キージンガーはライナー・バルツェル幹事長やゲアハルト・シュレーダー外相との党内での決選投票に勝ち、CDU党首のルートヴィヒ・エアハルト首相に取って代わった。キージンガーは新首相候補としてドイツ社会民主党(SPD)と交渉し、新たな大連立政権を樹立することに成功した[9]。指名選挙ではSPDからの造反があったにもかかわらず連邦議会の全議席の3分の2以上の支持を得たが、これは戦後の首相指名投票では最高記録である。しかしナチスで働いた経歴があるキージンガーの首相就任に対する拒否反応は大きく、作家ハインリヒ・ベルやギュンター・グラスに痛烈に批判され、1966年にグラスはキージンガーに首相職を引き受けないよう求める公開書簡を書いている。また哲学者カール・ヤスパースなどはスイスに国籍を変更した。イギリスの歴史家のトニー・ジャットは、キージンガーの首相職はハインリヒ・リュプケの大統領職と同様に、以前のナチスへの忠誠心から「ボン共和国[注釈 1]の自己イメージの明白な矛盾」を示していると指摘している[10]。 また、1968年11月7日のベルリンのCDU党大会で左派のフリージャーナリストで、夫のセルジュ・クラルスフェルトとともにナチス犯罪者の撲滅運動を展開していたナチ・ハンターのベアテ・クラルスフェルトに「このナチ」と罵倒されて平手打ちを喰ったのは有名な話である[9]。
キージンガー平手打ち事件