クリント・イーストウッド(Clint Eastwood, 1930年5月31日 - )は、アメリカ合衆国出身の俳優、映画監督、映画プロデューサー、作曲家、元政治家。
俳優として数多くの西部劇やアクション映画に出演。自身最大の当たり役であるハリー・キャラハン役を演じた『ダーティハリー』シリーズでスーパースターの地位を不動のものとした。監督としても『許されざる者』『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー作品賞とアカデミー監督賞を2度受賞するなど、ハリウッドで長年活躍してきた俳優、映画監督である。また、カリフォルニア州カーメル市市長を1期(2年間)務めた。
来歴
生い立ち
幼少期オークランド・テクニカル・ハイスクール
カリフォルニア州サンフランシスコのサンフランシスコ記念病院(英語版)で、クリントン・イーストウッド・シニアとマーガレット・ルースの息子として生まれる。体重が5.16キログラムの大きな赤ん坊だったため、看護師たちから「サムソン」と名付けられた[1][2][3]。イーストウッドはイングランド・アイルランド・スコットランド・オランダの血を引いている[4]。国勢調査の記録によると、父クリントン・シニアは1930年代に西海岸の各地で、セールスマンや探偵などの仕事を転々としながら家族を養っていたという[5][6][7]。1940年にイーストウッド家はサンフランシスコ郡ピートモンドに移住し、イーストウッドが成人するまで同地で生活した[8]。イーストウッドはインタビューで、世界恐慌を引き合いに出して幼少期の生活が苦しかったことを度々示唆しているが、ソンドラ・ロックはこれに対して「彼の家は決して貧しくはありませんでした。イーストウッド家は町の豊かな地区に暮らし、家にはプールがあり、家族一人一人が車を所有しており、カントリークラブにも加入していました」と主張している[9]。
イーストウッドは、成績不良でサマースクールに通う必要があったという[8]。彼は運動能力と音楽の才能は高く評価されていたが、成績不振のために転校を余儀なくされている[8]。学校ではバスケットボール選手としての能力を期待されるほどだったが、イーストウッド自身はテニスやゴルフなどの個人競技に興味があり、現在でもこれらを趣味としている[8]。オークランド・テクニカル・ハイスクール(英語版)に転校したイーストウッドは、そこで教師から演劇サークルに参加するように勧められたが、彼は演劇に興味がなかったため断っている。イーストウッドは、この頃は「速い車と尻軽女にしか興味がなかった」と語っている[10][11]。ハイスクールでは自動車整備コースを受講し、自動車と航空機のエンジンの組み立てと航空機のメンテナンスを研究していた[11]。イーストウッドは1949年1月に卒業する予定だったが、実際に卒業したかは不明である[12]。伝記作家のパトリック・マクギリガン(英語版)は、「卒業記録は厳格な守秘義務に守られている」と述べている[12]。イーストウッドの友人たちも「彼が学校の中で過ごしていたとは思わない。彼は他の場所で楽しい時間を過ごしていた」「彼が卒業したとは思えない」と語っている[12]。
青年期