アイランドの成功の要因をブラックウェルは以下のように解説している。
「メジャーレーベルはスーパーマーケットだけど、アイランドはとても洗練されたデリカテッセンだったからじゃないかな。[1]」
アイランドとブラックウェルは才能あるアーティストを見つけるだけでなく、彼らを育てること、さらに流行を生み出す能力にも長けていた。また、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのファースト・アルバム『キャッチ・ア・ファイア』のジッポーライター型ジャケットに代表される斬新なジャケットデザインなど、イメージ戦略にも長けていた[2]。
これについてブラックウェルは以下のように回想している。
「僕は、人はカッコいい何かを目に留めた瞬間、その中に何があるのか、つまりどんな音がレコードに刻まれてるのか絶対に気になってしまうものだと思ったんだ。当時は音よりもカバー(ディスクジャケット)の方が注目を浴びる風潮もあったから、カバーが完成した後にレコーディングをやり直した事もあるよ[2]」 アイランドはさらにトロージャン・レコード
事業拡大
アイランドは1972年にはジミー・クリフ主演の『ハーダー・ゼイ・カム (The Harder They Come)』で映画界にも進出した。同作は世界各国に流通した初のジャマイカ映画だった[1]。同年、ブラックウェルはジャマイカをはじめとした第三世界の音楽専門のレーベル、マンゴ・レコードを立ち上げた。マンゴではバーニング・スピア、ブラック・ウフル、サード・ワールド、サリフ・ケイタ、バーバ・マール (Baaba Maal)、アンジェリーク・キジョー、キング・サニー・アデなどのアーティストを配給した。
ブラックウェルの特筆すべき業績のひとつは、ジャマイカのウェイラーズ(ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ)を発掘し、世界の音楽ファンのレゲエへの関心を集めたことである[1]。ブラックウェルはウェイラーズがファースト・アルバムを作る際には、1958年にラスタファリアンに助けられた恩を返すつもりで多額の金銭的支援を行った。この誠意によってマーリーとブラックウェルの信頼関係は深まり、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとアイランドは双方とも長期にわたる成功を手にした。
マーリーとの経験についてブラックウェルは次のように証言している。
「彼(マーリー)はそれまでの黒人スターの様にではなく、ロックスターのような売り出し方をすべきだという僕の直感を信じてくれたんだ。彼の音楽は荒く、生々しく、エキサイティングなものだけど、それまでのアメリカのブラックミュージックといったら、ジェームス・ブラウン以外は皆スムースで落ち着いた雰囲気のものばかりだった。ボブもその辺の感覚には鋭いものを持ってたから、僕の事を信頼してくれたんだろうね[2]。」
1970年代から1990年代にかけてブラックウェルが発掘したロック系アーティストはキャット・スティーヴンスやグレイス・ジョーンズ、メリッサ・エスリッジ (Melissa Etheridge)、トム・ウェイツ、クランベリーズ、リチャード・トンプソン、PJ ハーヴェイらである。
1977年にはバハマのナッソーにコンパス・ポイント・スタジオを建設した。 ブラックウェルは1989年にはアイランド株をポリグラムへ売却し、1997年にアイランドを退職した。アイランドは同社の子会社となった後、1998年にはユニバーサルミュージック傘下となった。 ブラックウェルはアイランドを売却する一方、1998年には新たに音楽・映画・DVD製作を行うベンチャー企業パーム・ピクチャーズ
アイランド退社後