クリスマス島_(オーストラリア)
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1898年にはイギリス植民地政府の施策で、広東省などから約200名の中国人が採掘労働者として島に送り込まれたのを皮切りに、主に中国人、マレー人(ジャワアンボン出身)が採掘の労働力として島に送り込まれた。彼らは居住地を限定され、中国人はプン・サーン(Poon Saan、半山。山の中腹の意)地区、マレー人はカンポン(Kampong、村の意)地区に集められた。現在に至るまで、島の各地区は当時からの住み分けを色濃く反映している。

第二次世界大戦に入ると、島のリン鉱資源は日本の標的となった。1942年3月7日朝、島は日本軍・南雲機動部隊別働隊4隻(金剛型戦艦榛名金剛》、陽炎型駆逐艦谷風浦風》)の艦砲射撃を受け、同島守備隊は白旗を掲げた[1]。その後、別働隊4隻は白旗を放置して島を去ったが、島内では抗戦を主張するイギリス人と、降伏を主張するリン鉱労働者との意見が分かれた。同31日、第十六戦隊(司令官原顕三郎少将)と第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将)によるクリスマス島攻略作戦(軽巡洋艦3隻、駆逐艦3隻、哨戒艇2隻、輸送船2隻、油槽船1隻、上陸部隊850名)が実施される[2]。降伏主張者はついにイギリス人5人を殺害して、島をあけ渡した(日本軍のクリスマス島占領)。日本軍はリン鉱の搬出を目論んだが、労働者たちのサボタージュにあい、また輸送貨物船が1943年に潜水艦の攻撃で撃沈されるなどして、同12月にはあらかた島を撤退した。
第二次大戦後

第二次世界大戦が終結した1945年、島はイギリスのシンガポール植民地の管轄下に編入されたが、オーストラリアの要請により実効的な主権はオーストラリアに委譲された。

1948年にはリン鉱採掘はオーストラリア、ニュージーランド両政府とイギリスリン鉱委員会の三者によって行われるようになり、事業の拡大に伴い、ココス島、シンガポール、マレーシアから多量の労働者を迎え入れた。1957年に、オーストラリアはシンガポール政府に対して290万ポンドを支払い、1958年10月1日、クリスマス島はオーストラリアの領地となった。現在も10月の第一月曜はテリトリー・デイとして島の祝日となっている。

1975年には、採鉱労働者の労働組合が初めて結成され、以後労働環境や労働者の生活改善が進んだ。会社は1981年にクリスマス島リン鉱採掘会社 (Phosphate Mining Company of Christmas Island; PMCI) となり、イギリスリン鉱委員会はオーストラリア、ニュージーランド両政府に採掘権を譲渡した。1980年、1982年には今後のリン鉱採掘についてのオーストラリア政府の諮問に対し、W. W. スウィートランドが業務を公営寄りにすべき旨答申を行った。これに沿って、会社は1985年に公社化されるとともに、島はより一層オーストラリアの影響下に入り、オーストラリアの税制、イギリス連邦の選挙制度が適用された。

一方で、1970年代にはリン鉱採掘による熱帯雨林破壊が問題となりだした。1980年に島の西部が国立公園に指定され、1986年、1989年にその地域が拡大された。こうした動きに加え、良質な可採リン鉱の減少、リンの市場価格低下によって、公社は1987年11月で採掘を休止した。これに対して労働組合が中心となり、1990年9月にリン鉱資源株式会社 (Phosphate Resources Limited; PRL) を設立し、雇用の確保に当たった。会社は2018年までのリン鉱のリースを公社から受けているが、2005年現在、新たな採掘は行わず、これまで加工されずに野積みされていた分を加工出荷している。

新たな雇用創出を目的として、政府はカジノリゾートを計画した。1993年にウォーターフォール地区に施設が完成し、航空会社の協力を得てオーストラリア本土、東南アジアからの集客を期待したが、結果的に失敗に終わった。

クリスマス島はオーストラリアで最もアジア寄りの土地のひとつであるため、1970年代からアジアの難民が漂着していた。1980年代には下火になるものの、1990年代には再度増加し、2001年にはタンパ号事件が起きた。これはノルウェーの貨物船タンパが、沈没しかけた船からアフガニスタン難民を主とする人々を救助した後、難民たちの要求でクリスマス島に入港を求めたが、オーストラリア政府に拒否された事件である。島民たちは難民受け入れに賛同したが、政府は特殊部隊により港を閉鎖し、結局、第三国への移送を決定した。難民たちはニュージーランドとナウルで難民認定の審査を受け、ニュージーランド、オーストラリア他の国に定住することとなった。なお、このように難民(オーストラリアからすると不法移民)をオーストラリアに入国させず、他国で難民審査を行うことを、パシフィック・ソリューション (Pacific Solution) と称している。2007年に就任したケビン・ラッド政権は政権公約に従いパシフィック・ソリューションを廃止し、2008年2月までに審査中の難民をオーストラリア国内に移送した。

この事件を契機として、2001年12月には島の西部マーレー・ヒルの鉱石採掘跡に応急処置的に非公式の受け入れ施設が作られたが、その規模が小さく設備も不十分であるため、政府は800人収容の受入審査施設 (Immigration Reception and Processing Centre) を計画し、クリスマス島移住受付処理センターを建設をした。「新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)」も参照

2020年2月3日にオーストラリア人を乗せた航空機が武漢を出発し、検疫が実施されるクリスマス島に到着した[3]
地理クリスマス島クリスマス島

島は西オーストラリア海盆がジャワ海溝に落ち込む北端に位置し、島から東側にクリスマス海膨、西側にはココス島までヴェニング=マイネス海山列が広がる。周囲の海底は約5000mであり、島棚は存在せず海岸から深海までが連続している。

中央部から北東、南、西の三方に張り出した形状をしており、東西約20km、南北に約17.5kmの広がりを有する。最高地点は西部のマーレー・ヒル (361m) である。その他同じく西部にジャックス・ヒル (349m)、南部にロス・ヒル (319m) がある。周囲約80km(CIA World Fact Bookによると138.9km)の海岸線は高さ10?20mの海食崖に囲まれており、船が着岸できる場所は限られている。海岸付近の海中はほとんどの部分で裾礁が発達している。一般に海岸から山へは急峻な斜面が標高約200mまで続き、途中に造礁サンゴの跡である、テラスと呼ばれる平坦な部分がいくつか認められる。島の上部は標高200?250mの比較的平坦な高台となっており、クリスマス島空港も高台にある。西端のカルスト地形の一部と東部沿海の湿地マングローブの一部はラムサール条約登録地である[4][5]


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