クリストファー・コロンブス
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1475年から翌年にはジェノヴァのチェントリオーネ家に雇われ[4][注 7]、ローナ号で[5]エーゲ海ヒオス島へ行って乳香マスティーハ)取引に関わったと、第一次航海誌にて述べられている。

1476年5月にはチェントリオーネ家やスピノラ家、ディ・ネグロ家などジェノヴァ商人団に雇われ、乳香をイギリスフランドルへ運ぶ商船隊に参加し、ベカッラ号に乗り込んだ。しかし8月13日[5]、この船団がブルゴーニュの旗を掲げていたため、ポルトガルサン・ヴィセンテ岬沖で当時敵対していたフランス艦船から攻撃を受け、船は沈没した。コロンブスはにつかまって泳ぎ、ポルトガルのラゴス(en)までたどり着いた。なお、コロンブスが乗船していたのはフランスとカタルーニャ連合の船であり、いわばジェノヴァ船団を攻撃した側にいたという主張もある[注 8]
ポルトガル時代
リスボンでのコロンブス

彼はジェノヴァ人共同体の助けを借りてリスボンへ移った[3]。この時期は1477年春以降と考えられる[6]。そこには、地図製作に従事する弟のバルトロメが住んでおり、コロンブスは弟と一緒に地図作成や売買をしながら、たびたび航海にも加わっていた。1477年2月には、イギリスのブリストルを経てアイルランドゴールウェイ、そしてアイスランドまで向かった。アイスランドには、かつてヴァイキング北アメリカに植民地を築いたという「ヴィンランド伝説」があったが、コロンブスがこの伝承を耳にしたかどうかは分かっていない[7]

1479年末、コロンブスはフェリパ・ペレストレリョ(ペレストレーロ[8])・エ・モイス(またはフェリパ・モニス・ペレストレロ[9])と結婚した。ロス・サントス修道院のミサで彼女を見初めたのがなれそめという[3]。しかし、フェリパの父はマデイラ諸島にあるポルト・サント島の世襲領主バルトロメウ・ペレストレリョ(ペレストレーロ)であり、いわば貴族階級の女性であった。この釣り合わない結婚の背景には、フェリパが25歳という、当時としては晩婚と言える年齢であったこと、父バルトロメウは20年前に死去し、以後のペレストレリョ家は没落しており持参金を準備できなかったこと、逆にコロンブスは航海士・地図製作者として一定の成功を収めていたことなどがあったと推察されている[8][9][10]
西廻り航海の着想

結婚後は妻のゆかりの地ポルト・サント島(またはマデイラ島)に夫婦で行くこともあり、1480年ごろにそこで長男ディエゴに恵まれた。1481年、ディオゴ・デ・アザンプージャ(英語版)が 西アフリカを南下し、エルミナ城を築く航海に出ているが、これにコロンブスが加わりギニア黄金海岸まで行った[11]と考えられている。ポルトガル側にこれを証拠づける資料はないが、コロンブスは第一次航海の日誌(バルトロメ・デ・ラス・カサス編纂)にて西アフリカの情景を引き合いに出しているところや[10]、所蔵していたピエール・ダイイ著『イマゴ・ムンディ(世界像)』の「熱帯地方には人間は住めない」という箇所に「実際に行ってみたが、熱帯にも人は住んでいた」と書き込んでいる[12]点がその根拠とされる。

また、当時のある事件をラス・カサスは『インディアス史』(第一巻十四章)に記している。それは、マデイラ島に漂着した白人漂流者がいたというものである。この漂流者はポルトガル交易船員だったが、嵐のためにキューバまで流されてしまい、船を修理して東へ出航したが生きてマデイラ島にたどり着いた数名はほとんどすぐ死に、最後の一人をコロンブスが保護したが、やがて彼も亡くなった。『インディアス自然一般史 (Historia General y Natural de las Indias)』を著したフェルナンデス・オヴェイド(en)も1535年にこの説話を懐疑的ながら採録している。コロンブス自身が著述したどの文章にもこの話は書かれていないが、ラス・カサスはこの事件がコロンブスをして西廻り航路の発想に至らす原点になったと述べている[注 9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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