通説(ジェノヴァ説)では、毛織物職人一家で育った父ドメニコ・コロンボと母スサナ・フォンタナローサの間にはクリストファーを含み7人の子がいたが、上の2人の子は若くして死亡したと考えられ、何の記録も残っていない[3]。
弟は1 - 2歳下にバルトロメと17歳下にジャコモ(のちにディエゴと呼ばれる)、妹は2人いたが記録に残るのはピアンチネータの一人だけである[3]。父は毛織物業を自営していたが一家は決して裕福ではなく、ワインやチーズの売買も行っていた。ジェノヴァにあるコロンブスのモニュメント コロンブスと海とのかかわりは10代のころから始まった。最初は父親の仕事を手伝って船に乗り、1472年にはアンジュー公ルネから対立するアラゴン王国のガレー船・フェルナンディア号拿捕の命を受けた船に乗ってチュニスに向かったという説もある[注 6]。1475年から翌年にはジェノヴァのチェントリオーネ家に雇われ[4][注 7]、ローナ号で[5]エーゲ海のヒオス島へ行って乳香(マスティーハ)取引に関わったと、第一次航海誌にて述べられている。 1476年5月にはチェントリオーネ家やスピノラ家、ディ・ネグロ家などジェノヴァ商人団に雇われ、乳香をイギリスやフランドルへ運ぶ商船隊に参加し、ベカッラ号に乗り込んだ。しかし8月13日[5]、この船団がブルゴーニュの旗を掲げていたため、ポルトガルのサン・ヴィセンテ岬沖で当時敵対していたフランス艦船から攻撃を受け、船は沈没した。コロンブスは櫂につかまって泳ぎ、ポルトガルのラゴス(en) 彼はジェノヴァ人共同体の助けを借りてリスボンへ移った[3]。この時期は1477年春以降と考えられる[6]。そこには、地図製作に従事する弟のバルトロメが住んでおり、コロンブスは弟と一緒に地図作成や売買をしながら、たびたび航海にも加わっていた。1477年2月には、イギリスのブリストルを経てアイルランドのゴールウェイ、そしてアイスランドまで向かった。アイスランドには、かつてヴァイキングが北アメリカに植民地を築いたという「ヴィンランド伝説」があったが、コロンブスがこの伝承を耳にしたかどうかは分かっていない[7]。 1479年末、コロンブスはフェリパ・ペレストレリョ(ペレストレーロ[8])・エ・モイス(またはフェリパ・モニス・ペレストレロ[9])と結婚した。ロス・サントス修道院のミサで彼女を見初めたのがなれそめという[3]。しかし、フェリパの父はマデイラ諸島にあるポルト・サント島の世襲領主バルトロメウ・ペレストレリョ(ペレストレーロ)であり、いわば貴族階級の女性であった。この釣り合わない結婚の背景には、フェリパが25歳という、当時としては晩婚と言える年齢であったこと、父バルトロメウは20年前に死去し、以後のペレストレリョ家は没落しており持参金を準備できなかったこと、逆にコロンブスは航海士・地図製作者として一定の成功を収めていたことなどがあったと推察されている[8][9][10]。 結婚後は妻のゆかりの地ポルト・サント島(またはマデイラ島)に夫婦で行くこともあり、1480年ごろにそこで長男ディエゴに恵まれた。1481年、ディオゴ・デ・アザンプージャ
海とのかかわり
ポルトガル時代
リスボンでのコロンブス
西廻り航海の着想
また、当時のある事件をラス・カサスは『インディアス史』(第一巻十四章)に記している。それは、マデイラ島に漂着した白人漂流者がいたというものである。この漂流者はポルトガル交易船員だったが、嵐のためにキューバまで流されてしまい、船を修理して東へ出航したが生きてマデイラ島にたどり着いた数名はほとんどすぐ死に、最後の一人をコロンブスが保護したが、やがて彼も亡くなった。『インディアス自然一般史 (Historia General y Natural de las Indias)』を著したフェルナンデス・オヴェイド(en)も1535年にこの説話を懐疑的ながら採録している。コロンブス自身が著述したどの文章にもこの話は書かれていないが、ラス・カサスはこの事件がコロンブスをして西廻り航路の発想に至らす原点になったと述べている[注 9]。
このころ、コロンブスは積極的にスペイン語やラテン語などの言語や天文学・地理、そして航海術の習得に努めた。仕事の拠点であるリスボンでパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリと知り合う機会を得て、手紙の交換をしている。当時はすでに地球球体説は一般に信じられていたが、トスカネッリはマルコ・ポーロの考えを取り入れ、大西洋を挟んだヨーロッパとアジアの距離はプトレマイオスの試算よりもずっと短いと主張していた。『東方見聞録』にある黄金の国・ジパングに惹かれていたコロンブスはここに西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出した。また、現存する最古の地球儀を作ったマルティン・ベハイムとも交流を持ち意見を交換した説もある[13][2- 1]。これらの収集情報や考察を経てコロンブスは西廻り航海が可能だとする5つの理論根拠を構築した。ラス・カサス『インディアス史』(第5章)に記載されたその内容は、[14]