この節には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 1492年8月3日、スペインウェルバのパロス港からインド(インディア)を目指して大西洋へ出航した。このときの編成はキャラベル船のニーニャ号とピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号の3隻で総乗組員数は約90人(120人という説も)。 いったんカナリア諸島へ寄り、大航海の準備を整えたあと、一気に西進した。大西洋は極端に島の少ない大洋であり、船員の間には次第に不安が募っていった。当時の最新科学では地球が球体であるということはほぼ常識となっていたが、船員の間では地球を平面とする旧来の考えも根強く残っていた。 コロンブス自身は平気なふりをしていたが、計算を越えて長い航海となったことに不安を感じるようになる。10月6日には小規模な暴動が起こり、3日後には船員の不安は頂点に達し、コロンブスに迫って「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。その後、流木などを発見し陸が近くにあると船員を説得する。 そして10月11日の日付が変わろうとするとき、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島と名づける。 最初に上陸した島でコロンブス一行は、アラワク族インディアンたちから歓待を受ける。アラワク族は船から上がったコロンブスたちに水や食料を贈り、オウムや綿の玉、槍やその他見たことのないたくさんのものを持ってきた。コロンブス一行はそれをガラスのビーズや鷹の鈴と交換した。しかしコロンブスの興味は、ただ黄金にしかなかった。彼はこう書き残している。[28]「彼らと友好を結ぶため、それにまた、彼らは力ではなく愛をもって接すれば、より速やかに解放され、我らの聖なる信仰に帰依すると分かったので、彼らの何人かに赤いボンネット帽や首にかけるガラス玉の数珠といった安価な品をいくつか与えたところ、彼らはとても喜び、我々も驚くほど和やかな間柄になった。(中略)彼らは良き僕になるに違いない。なぜならわたしが見るに、彼らはわたしが話すことすべて、すぐにあとについて口にするからである。また、わたしは彼らは速やかにキリスト教徒になると信じる。なぜならいかなる宗派ももっていないように思われたからである」 コロンブスはこの島で略奪を働き、次に現在のキューバ島を発見した。ここを「フアナ島」と名づけたあと、ピンタ号船長であるマルティン・アロンソ・ピンソンの独断によりピンタ号が一時離脱してしまうが、12月6日にはイスパニョーラ島と名づけた島に到達。24日にサンタ・マリア号が座礁してしまう。しかし、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。この入植地には39名の男性が残った。 年が明け、1493年1月6日にピンタ号と再び合流する。1月16日、スペインへの帰還を命じ、3月15日にパロス港へ帰還した。 帰還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。コロンブスは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた。この取り決めに従い、コロンブスはインディアンから強奪した金銀宝石、真珠などの戦利品の10分の1を手に入れた。また陸地を発見した者には賞金がカトリック両王から与えられることになっていたが、コロンブスは自分が先に発見したと言い張り、これをせしめている。 国王に調査報告を終え、少しばかりの援助を求めたコロンブスは、次の航海目標としてこう述べている。「彼らが必要とするだけのありったけの黄金…彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ」 1493年5月4日、ローマ法王勅書はアゾレス諸島の西100リーグの分界線を定め、スペインはこれによって新大陸を探検し植民する独占的な権利を手にした[29]。折からの関心の高まりによって、コロンブスは2回目の航海の資金を難なく作ることができた[29]。 1493年の9月に17隻1,500人で出発したコロンブスの2度目の航海は、その乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。11月にドミニカ島と名づけた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は原住民であるインディアンにより破壊されており、残した人間はすべて殺されていた。コロンブスはここを放棄して新しく「イサベル植民地」を築いた。
出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2023年11月)
中立的な観点に基づく疑問が提出されています。(2017年12月)
正確性に疑問が呈されています。(2017年12月)
船出
1492年「新大陸」上陸コロンブスの航路
1493年