クリストファー・コロンブス
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コロンブスは25万マラベディを調達したが、これはメディナセリ公やセビリアのフィレンツェ人銀行家ベラルディなどから借金をしてかき集めたものだった[27]
航海詳細は「クリストファー・コロンブスの航海(英語版)」を参照.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2023年11月)


中立的な観点に基づく疑問が提出されています。(2017年12月)


正確性に疑問が呈されています。(2017年12月)



船出

1492年8月3日スペインウェルバのパロス港からインド(インディア)を目指して大西洋へ出航した。このときの編成はキャラベル船ニーニャ号ピンタ号ナオ船サンタ・マリア号の3隻で総乗組員数は約90人(120人という説も)。

いったんカナリア諸島へ寄り、大航海の準備を整えたあと、一気に西進した。大西洋は極端に島の少ない大洋であり、船員の間には次第に不安が募っていった。当時の最新科学では地球が球体であるということはほぼ常識となっていたが、船員の間では地球を平面とする旧来の考えも根強く残っていた。

コロンブス自身は平気なふりをしていたが、計算を越えて長い航海となったことに不安を感じるようになる。10月6日には小規模な暴動が起こり、3日後には船員の不安は頂点に達し、コロンブスに迫って「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。その後、流木などを発見し陸が近くにあると船員を説得する。
1492年「新大陸」上陸コロンブスの航路

そして10月11日の日付が変わろうとするとき、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島と名づける。

最初に上陸した島でコロンブス一行は、アラワク族インディアンたちから歓待を受ける。アラワク族は船から上がったコロンブスたちに水や食料を贈り、オウムや綿の玉、槍やその他見たことのないたくさんのものを持ってきた。コロンブス一行はそれをガラスのビーズや鷹の鈴と交換した。しかしコロンブスの興味は、ただ黄金にしかなかった。彼はこう書き残している。[28]「彼らと友好を結ぶため、それにまた、彼らは力ではなく愛をもって接すれば、より速やかに解放され、我らの聖なる信仰に帰依すると分かったので、彼らの何人かに赤いボンネット帽や首にかけるガラス玉の数珠といった安価な品をいくつか与えたところ、彼らはとても喜び、我々も驚くほど和やかな間柄になった。(中略)彼らは良き僕になるに違いない。なぜならわたしが見るに、彼らはわたしが話すことすべて、すぐにあとについて口にするからである。また、わたしは彼らは速やかにキリスト教徒になると信じる。なぜならいかなる宗派ももっていないように思われたからである」

コロンブスはこの島で略奪を働き、次に現在のキューバ島を発見した。ここを「フアナ島」と名づけたあと、ピンタ号船長であるマルティン・アロンソ・ピンソンの独断によりピンタ号が一時離脱してしまうが、12月6日にはイスパニョーラ島と名づけた島に到達。24日にサンタ・マリア号が座礁してしまう。しかし、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。この入植地には39名の男性が残った。

年が明け、1493年1月6日にピンタ号と再び合流する。1月16日、スペインへの帰還を命じ、3月15日にパロス港へ帰還した。

帰還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。コロンブスは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた。この取り決めに従い、コロンブスはインディアンから強奪した金銀宝石、真珠などの戦利品の10分の1を手に入れた。また陸地を発見した者には賞金がカトリック両王から与えられることになっていたが、コロンブスは自分が先に発見したと言い張り、これをせしめている。

国王に調査報告を終え、少しばかりの援助を求めたコロンブスは、次の航海目標としてこう述べている。「彼らが必要とするだけのありったけの黄金…彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ」

1493年5月4日、ローマ法王勅書はアゾレス諸島の西100リーグの分界線を定め、スペインはこれによって新大陸を探検し植民する独占的な権利を手にした[29]。折からの関心の高まりによって、コロンブスは2回目の航海の資金を難なく作ることができた[29]
1493年

1493年の9月に17隻1,500人で出発したコロンブスの2度目の航海は、その乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。11月にドミニカ島と名づけた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は原住民であるインディアンにより破壊されており、残した人間はすべて殺されていた。コロンブスはここを放棄して新しく「イサベル植民地」を築いた。しかし白人入植者の間では植民地での生活に不満の声が上がり、周辺諸島ではアラワク族タイノ族、ルカヤン族、カリブ族などのインディアンの間で白人の行為に対して怒りが重積していた。

最終的に、コロンブスの率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的な虐殺弾圧を行った。

1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。再び船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れたインディアンの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。コロンブスの襲撃戦略は以後10年間、欧州人が繰り返した殺戮モデルとなった[30]

コロンブスは、イスパニョーラ島のインディアン部族の指導者と睨んでいた一人の酋長を殺さずに、引き回しの刑と投獄のあと、鎖につないで船に乗せ、スペインへ連行しようとした。しかし他のインディアンたちと同様に、この男性は劣悪な船内環境の中、セビリアに着く前に死んでいる。

また一方で、カリブ族の中では人が人を食べる習俗のカニバリズムがある。この事はコロンブスによってスペインに報告され、その後、人肉を食らう裸族の想像画をともないながらヨーロッパ世界に広がっていった。
晩年

植民地の管理を弟に任せて、コロンブスは先住民の王と共にスペイン本国に帰国し、旧約聖書に登場する土地オフィール(英語版)を発見したと報告した[31]

コロンブスがカリブ海諸島で指揮した行き当たりばったりの大虐殺は、「黄金探し」を使命としたスペイン海軍によって体系化され、 あらゆる部族の子供以外のインディアンが、3か月以内に一定量の黄金を差し出すよう脅迫された。金を届けたインディアンには、「スペイン人に敬意を表した」という証しとして、その男女に首かけの標章が贈られた。金の量が足りなかった者は、男だろうと女だろうと手首が斬り落とされた。

コロンブスらスペイン人の幻想よりも当地の金の量ははるかに少なかったため、死にたくなかったインディアンたちは、生活を犠牲にして金を捜さざるを得なかった。インディアンが逃亡を始めると飢饉はさらに悪化した。コロンブスらスペイン人が運び込んだ疫病は、栄養失調となったインディアンたちの弱められた身体をより激しく蝕んだ。そしてコロンブスたちと同じく、スペイン軍は面白半分に男を殺し女を犯す楽しみを決してやめなかった。

1498年5月、6隻の船で3度目の航海に出る。今度は南よりの航路をとり、現在のベネズエラオリノコ川の河口に上陸した。その膨大な量の河水が海水ではなく真水であったことから、それだけの大河を蓄えるのは島ではなく大陸であるということをコロンブスは認めざるを得なかった。それと同時に、オリノコ川は上方の地上の楽園から流れて来ていると考えていた[31](当時の世界観ではエデンの園を水源とする4つの川が東方を流れていると考えられていた[32])。

その後、北上してサントドミンゴに着くと後を任せていた弟・バルトロメの統治の悪さから反乱が起きていた。コロンブスは説得を続けるが、入植者たちはこれをなかなか受け入れず、1500年8月に本国から来た査察官により逮捕され、本国へと送還された。罪に問われる事は免れたものの、すべての地位を剥奪される。

それでもコロンブスは4度目となる航海を企画するが、王からの援助は小型のボロ舟4隻というものであった。1502年に出航したが、イスパニョーラ島への寄港は禁じられており、パナマ周辺を6か月さまよったが、最後は難破して救助され、1504年11月にスペインへ戻った。しかし1504年末にイサベル女王が死去し、スペイン王室はコロンブスに対してさらに冷淡になった。


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