その後、北上してサントドミンゴに着くと後を任せていた弟・バルトロメの統治の悪さから反乱が起きていた。コロンブスは説得を続けるが、入植者たちはこれをなかなか受け入れず、1500年8月に本国から来た査察官により逮捕され、本国へと送還された。罪に問われる事は免れたものの、すべての地位を剥奪される。
それでもコロンブスは4度目となる航海を企画するが、王からの援助は小型のボロ舟4隻というものであった。1502年に出航したが、イスパニョーラ島への寄港は禁じられており、パナマ周辺を6か月さまよったが、最後は難破して救助され、1504年11月にスペインへ戻った。しかし1504年末にイサベル女王が死去し、スペイン王室はコロンブスに対してさらに冷淡になった。
帰国後は病気になり、1506年5月20日スペインのバリャドリッドにて死去。その遺骨はセビリアの修道院に納められたが1542年にサントドミンゴの大聖堂に移された。晩年は金銭的には恵まれていたが、最期まで自らが発見した島をアジアだと主張し続けていた[33]。
コロンブスの死後、ドイツの地理学者マルティン・ヴァルトゼーミュラーが手がけた地図には、南米大陸の「発見者」としてコロンブスではなく、アメリゴ・ヴェスプッチの名前が記された。この結果、ヨーロッパでは「新大陸」全域を指す言葉として「コロンビア」ではなく「アメリカ」が使われるようになった(ただし、18世紀以降アメリカの雅称として「コロンビア」も用いられる)。 コロンブスに関してはその出自が明らかではないこと、また大航海の目的自体があまり明確に語り継がれていないことなどから、さまざまな異聞が流れている。また、残されている肖像画はすべて本人の死後に描かれたものであり、今となってはコロンブスの真の素顔を知るすべはない。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}レオナルド・ダ・ヴィンチの日記の中に「ジェノヴァ人の船乗りと地球について話す」という興味深い記述があることから[要出典]、両者の間に面識があったのではないかという説がある。 多く語られているものとしては、コロンブスはユダヤ人の片親から生まれたのではないかとする奇説である。 1492年、スペイン王家は同国内に住むユダヤ人に対し8月2日を期限とする国外追放令を発布したが、コロンブスがスペイン王家の支援を受けて出航したのは翌8月3日である。このことから、コロンブス出航の真の目的はユダヤ人の移住地探しではないかとする説も存在する。また、教皇インノケンティウス8世の落胤ではないかとする説も存在する。しかし、これらの仮説を支持する研究者は少なく、俗説の域を出ていない。 新大陸発見を祝う凱旋式典で「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。造作もないことだ」などとコロンブスの成功を妬む人々に対し、コロンブスは「誰かこの卵を机に立ててみて下さい」と言い、誰もできなかったあとでコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立てた。「そんな方法なら誰でもできる」と言う人々に対し、コロンブスは「人のした後では造作もないことです」と返した。これが『コロンブスの卵(Egg of Columbus)』の逸話であり、「誰でもできることでも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要」「逆転の発想」という意の故事成語として今日使われている[注 17]。 しかし、ヴォルテールは『習俗論』(第145章)にて「これは建築家フィリッポ・ブルネレスキの逸話が元になった創作だ」と指摘し、会話の内容などもそのまま流用されていると説明した[35]。逸話の内容は1410年代、『フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ(ドーム部分)の設計にみな難儀していた際、ブルネレスキは設計図面も完成模型も見せないまま「私に建築させて下さい」と立候補した。ほかの建築家たちが大反対したところ、ブルネレスキは「大理石の上に卵を立てられる人に建築を任せてみてはどうか」と提案。誰もできなかった中で、ブルネレスキは卵の底を潰して立てた。当然のごとく周囲から批判されたが、ブルネレスキは「最初にやるのがもっとも難しい。もし先に図面を見せたら、あなたたちは真似をするでしょう?」と切り返した』というものである。
航海などの関係略年表
1492年
8月3日 第1回航海出発( - 1493年3月15日)
10月12日 バハマ諸島グァナハニ島に到達
10月28日 キューバ島着
12月6日 イスパニョーラ島着
1493年
9月25日 第2回航海出発( - 1496年6月11日)
1494年
6月7日 トルデシリャス条約によりスペインとポルトガルの境界線画定
1498年
8月 サント・ドミンゴ市の建設
5月30日 第3回航海出発( - 1500年10月)
1502年
5月9日 第4回航海出発( - 1504年11月7日)
1503年
2月14日 スペイン、植民地との貿易を統括する通商院をセビリャに設置
12月20日 エンコミエンダ制、イスパニョーラ島で公認
1505年
イスパニョーラ島に黒人奴隷導入
出自に関する諸説
ユダヤ人?
ポーランドの王子?ヴワディスワフ3世(アレクサンデル・レッセル画)
「コロンブスの卵」詳細は「コロンブスの卵」を参照
その他旧5000イタリア・リレ紙幣(1971年にデザインを変更した後期バージョン)
紙幣では、イタリアで1964年から1979年まで発行されていた5,000リラ札、スペインで1992年から2001年まで発行されていた5,000ペセタ札、エルサルバドルで2001年まで流通していた全額面のコロン札でその肖像が使用されていた。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ コロンブスは1470年10月31日付の公正証書において「満19歳」、ジェノヴァで開かれた裁判で1479年8月25日に証言した際に「満27歳」と述べており、これら2つの証言から1451年の8月26日から10月31日までの間に出生したと考えられる。(青木(1993)、p.444)
^ Christophorus Columbus
^ Christopher Columbus
^ イタリア語: Cristoforo Colombo
^ スペイン語: Cristobal Colon
^ これはコロンブスがカトリック両王に送った手紙の断片をフェルナンドが記録したものにあるが、この説明には矛盾がある。航海当時20歳前後のコロンブスが船長を務めるには若すぎる事(笈川p23-24)、サルディニアで敵の艦隊が見つかったため北へ引き返そうとする船員たちを、方位磁針の文字板を南北逆にして騙し南へ向かったという点に、太陽の位置から船員らが方角を間違えるはずが無い(笈川p23-24、ルケーヌp25-28)という点が指摘されている。