この考えの根底にはアリストテレスの地理観を引き継いだ中世キリスト教の普遍史観から、世界はヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸で成り立っていたという概念がある。地球の大きさについても、北緯28度におけるカナリア諸島から日本までを実際の10,600海里に対しコロンブスは2,400海里と、非常に小さく見積もっていた[15]。 1484年末[注 10]、コロンブスはポルトガル王ジョアン2世に航海のための援助を求め、その自信に溢れた弁舌に[2- 2]、ジョアン2世は興味をそそられた[16]。コロンブスは資金援助に加え成功報酬も求めたが、高い地位や権利、そして収益の10%という大きなものだった[注 11]。王室は数学委員会(フンタ・ドス・マテマティコス)の諮問にかけて検討したが、回答は否決だった。コロンブス以前にも大西洋への航海は何度か試みられたがすべて失敗し、一方でアフリカ探検はディオゴ・カンがコンゴ王国との接触に成功し[16]喜望峰に達する寸前まで来ていたこと、さらにコロンブスの要求があまりに過剰だと受け止められたことも影響した[17]。 再度コロンブスは提案を上奏したが決定は覆らず[17]、ジョアン2世はコロンブスが自費で航海をするならばよいと言うのみだったが、コロンブスにはそのような資金がなく[16]、借金さえ抱えていた[6]。このころ、コロンブスは妻フェリパを亡くし、1485年半ばごろ、8年間過ごしたポルトガルに別れを告げる決心をつけた[6]。 コロンブスはリスボンから海路、スペインのパロスに着き、そこからウエルバのティント川沿いの丘に建つラ・ラビダ修道院を訪ねた[注 12]。5歳の息子ディエゴを伴った彼を招き入れた修道院長のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父はコロンブスの話に感銘を受け、彼に天文学者でもある[18]セビリアのアントニオ・マルチェーナ神父を紹介し、そこへ向かうために息子ディエゴを修道院で預かった。さらにコロンブスはスペイン貴族の第2代メディナ=シドニア公爵ドン・エンリケ・デ・グスマン コロンブスへの援助に同意したメディナセリ公だったが、このような計画は王室への許可を得るべきだと考えカスティーリャのイサベル1世へ計画を知らせると、彼女自身がこれに興味を覚えた[16]。1486年5月1日[注 13]、メディナセリ公が紹介してコロンブスはコルドバでイサベル1世とその夫フェルナンド2世(カトリック両王)に謁見した。コロンブスの話にフェルナンド2世はあまり興味を持たなかったが、イサベル1世は惹きつけられた。計画は、懺悔聴聞師のエルナンド・デ・タラベラ(フライ・エルナンド・デ・タラベーラ)神父を中心とする諮問委員会が設けられ、そこで評価されることになった。1486年だけで二度[注 14]委員会は開かれたが、コロンブスが示したアジアまでの距離が特に疑問視され、結論は持ち越された。 コロンブスはメディナセリ公の支援を受けながらコルドバの彼の城に滞在し、カトリック両王との面談を模索する一方で、交流を持った医師や学者らの中の一人から当時20歳(または21歳)の小作人の娘ベアトリス・エンリケス・デ・アラーナ
王室への提案
スペイン時代
カトリック両王への売り込み
しかしスペイン王室からの返事はなかなか届かなかった。コロンブスに好意を持った委員会長のタラベラや、メンバーの1人であるドミニコ会のディエゴ・デ・デサらは、委員会が否定的結論を出そうとすると引き延ばしにかかっていた[16][注 15]。コロンブスはポルトガルのジョアン2世に手紙を送ったが、バルトロメウ・ディアスの喜望峰発見もあって話がまとまることはなかった[注 16]。また、弟バルトロメをイギリスのヘンリー7世やフランスのシャルル8世の下に差し向け、計画の宣伝をさせた。いずれの王からも支持は得られなかったが、シャルル8世の姉アンヌ・ド・ボージューの歓待を得て、バルトロメはフォンテーヌブローの宮殿に数年間滞在した[21]。