クリストファー・コロンブス
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クリストファー・コロンブス(1451年 [注 1]- 1506年5月20日)は、大航海時代探検家航海者コンキスタドール奴隷商人。定説ではイタリアジェノヴァ出身[1]ランス・オ・メドーが発見されるまではキリスト教世界の白人としては最初にアメリカ海域へ到達したとされていた。

彼の実績により彼の子孫はスペイン王室よりベラグア公爵とラ・ベガ公爵(スペイン語版)に叙され、2024年現在までスペイン貴族公爵家として続いている。
名前について

日本では普通クリストファー・コロンブスと呼ばれているが、これは彼の元々の姓をラテン語[注 2]によって表記したものが、そのまま英語[注 3]に取り入れられて、日本にも伝わり、一般化したものである[2]

ジェノヴァ出身の彼の元々の姓名はクリストーフォロ・コロンボ[注 4]であった。しかし、スペインに移り住んでからはクリストバル・コロン[注 5]に変えている。当時のスペインで作成された文献のほとんど全てにおいて彼は「コロン」と呼ばれていることからも、本人が名乗っていた名前は「クリストバル・コロン」であったと考えられる。
ジェノヴァ時代
生誕

コロンブスは、1451年8月25日から10月末までの間に、ジェノヴァもしくはその近郊で生まれたという説が主流であった[3]が、これについては史料として裏付けとなる根拠がなく、異説も多いため、はっきりした事実は判明していない。

通説(ジェノヴァ説)では、毛織物職人一家で育った父ドメニコ・コロンボと母スサナ・フォンタナローサの間にはクリストファーを含み7人の子がいたが、上の2人の子は若くして死亡したと考えられ、何の記録も残っていない[3]

弟は1 - 2歳下にバルトロメと17歳下にジャコモ(のちにディエゴと呼ばれる)、妹は2人いたが記録に残るのはピアンチネータの一人だけである[3]。父は毛織物業を自営していたが一家は決して裕福ではなく、ワインチーズの売買も行っていた。ジェノヴァにあるコロンブスのモニュメント
海とのかかわり

コロンブスと海とのかかわりは10代のころから始まった。最初は父親の仕事を手伝って船に乗り、1472年にはアンジュー公ルネから対立するアラゴン王国ガレー船・フェルナンディア号拿捕の命を受けた船に乗ってチュニスに向かったという説もある[注 6]。1475年から翌年にはジェノヴァのチェントリオーネ家に雇われ[4][注 7]、ローナ号で[5]エーゲ海ヒオス島へ行って乳香マスティーハ)取引に関わったと、第一次航海誌にて述べられている。

1476年5月にはチェントリオーネ家やスピノラ家、ディ・ネグロ家などジェノヴァ商人団に雇われ、乳香をイギリスフランドルへ運ぶ商船隊に参加し、ベカッラ号に乗り込んだ。しかし8月13日[5]、この船団がブルゴーニュの旗を掲げていたため、ポルトガルサン・ヴィセンテ岬沖で当時敵対していたフランス艦船から攻撃を受け、船は沈没した。コロンブスはにつかまって泳ぎ、ポルトガルのラゴス(en)までたどり着いた。なお、コロンブスが乗船していたのはフランスとカタルーニャ連合の船であり、いわばジェノヴァ船団を攻撃した側にいたという主張もある[注 8]
ポルトガル時代
リスボンでのコロンブス

彼はジェノヴァ人共同体の助けを借りてリスボンへ移った[3]。この時期は1477年春以降と考えられる[6]。そこには、地図製作に従事する弟のバルトロメが住んでおり、コロンブスは弟と一緒に地図作成や売買をしながら、たびたび航海にも加わっていた。1477年2月には、イギリスのブリストルを経てアイルランドゴールウェイ、そしてアイスランドまで向かった。アイスランドには、かつてヴァイキング北アメリカに植民地を築いたという「ヴィンランド伝説」があったが、コロンブスがこの伝承を耳にしたかどうかは分かっていない[7]

1479年末、コロンブスはフェリパ・ペレストレリョ(ペレストレーロ[8])・エ・モイス(またはフェリパ・モニス・ペレストレロ[9])と結婚した。ロス・サントス修道院のミサで彼女を見初めたのがなれそめという[3]。しかし、フェリパの父はマデイラ諸島にあるポルト・サント島の世襲領主バルトロメウ・ペレストレリョ(ペレストレーロ)であり、いわば貴族階級の女性であった。この釣り合わない結婚の背景には、フェリパが25歳という、当時としては晩婚と言える年齢であったこと、父バルトロメウは20年前に死去し、以後のペレストレリョ家は没落しており持参金を準備できなかったこと、逆にコロンブスは航海士・地図製作者として一定の成功を収めていたことなどがあったと推察されている[8][9][10]
西廻り航海の着想

結婚後は妻のゆかりの地ポルト・サント島(またはマデイラ島)に夫婦で行くこともあり、1480年ごろにそこで長男ディエゴに恵まれた。1481年、ディオゴ・デ・アザンプージャ(英語版)が 西アフリカを南下し、エルミナ城を築く航海に出ているが、これにコロンブスが加わりギニア黄金海岸まで行った[11]と考えられている。ポルトガル側にこれを証拠づける資料はないが、コロンブスは第一次航海の日誌(バルトロメ・デ・ラス・カサス編纂)にて西アフリカの情景を引き合いに出しているところや[10]、所蔵していたピエール・ダイイ著『イマゴ・ムンディ(世界像)』の「熱帯地方には人間は住めない」という箇所に「実際に行ってみたが、熱帯にも人は住んでいた」と書き込んでいる[12]点がその根拠とされる。


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