「クラーク」(kulak)とは、買占人・不正仲買人・高利貸などを意味したロシア語で、裕福な農民・富農・農村ブルジョア層を指す[5]。
1917年から1933年にかけて行われ、とりわけ1929年から1932年の第一次五カ年計画の期間に多数の人々が被害にあった。1930年から1931年の間だけで180万人以上の農民が「クラーク」として追放され[6][7][8]、1929年から1933年にかけて、飢餓・強制労働による栄養失調・病気、および大量処刑などにより、約39万人が、または53万人から60万人が死亡した[9][10]。 1917年のロシア革命、特に十月革命中の11月8日(ユリウス暦10月26日)に公布された土地に関する布告によって地主、ロシア皇帝ニコライ2世の領地、教会領地は没収された。これによって地主階級は完全に消滅し、また、自作農(フートル農、オートルプ農)も、三圃制農法にもとづく農村共同体復活により消滅した[11]。このミールは、ロシアの農奴制において、税と土地の再分配に連帯責任を持っており、農村社会を支配していた[12][注 1]。革命後でも1927年には土地保有の95.5%が古い農村共同体に属し、個人農場は3.5%にすぎなかった[13]。 土地の国有化によって農民階層の平準化は行われたが、農業生産には重大な打撃が生じ、また、ロシア内戦(1917-22)によってロシア社会はさらに疲弊し混乱した[11]。 クラークはもとは拳を意味し、村の金貸し、抵当権設定者、裕福な農民を意味した[14]。しかし、富裕な農民ならだれでも時々は金貸を期待されており、人民主義者の革命家で農村の医師であったO.V.アプテクマーン(Osip Aptekman)は、富裕な農民がみんなクラークとは限らないと述べている[14]。一方で、レーニンは、クラーク(富農)、中農
レーニンによるクラーク撲滅
ロシア革命と農民
ボリシェヴィキと富農・農民
しかし、「富農」の定義は実際には難しく、数値による定義などはほとんど不可能であった[15]。1927年時点では、最も豊かな農民でも、平均7人家族で、牛を2?3頭所持と10ヘクタール以内の耕地しかもっておらず、最も豊かな農民のひとりあたりの収入は、貧農のひとりあたりの収入よりも50-56%多い程度であった[15]。また、中農も他人を雇っており、貧農にも他人を雇うものがおり、富農だけが雇い主であったわけではなかった[15]。こうした矛盾がありながらも、農民を階層によって区分することは、階級対立という仮定上の誤った見解の上にたっていた[15]。
プロレタリアートを支持母体としたボリシェヴィキでは、富農をブルジョワとして敵視するだけでなく、農民そのものを「遅れた階級」として軽蔑する傾向があり、たとえばプレハーノフは農民を「残酷で無慈悲、野蛮」な「荷物を運ぶだけの動物同然」だと非難し、レーニンも農民は「浅ましいほどに利己主義的である」と侮蔑した[16]。