講和を申し込んだギリシア連合軍の将軍たちに対し、アンティパトロスはそれぞれの都市国家と個別でしか和約を結ばないと答え、これによって敵を分断しようとした。アンティパトロスとの講和は当初拒絶されたが、マケドニア軍がいくつかのテッサリアの諸都市を落としたことにより、多くの都市はアンティパトロスの求めに応じた。こうして反マケドニア同盟は崩壊した。無条件降伏を強いられたアテナイはアンティパトロスによって課された和約において寡頭制への交代と主戦論者の市民のトラキアへの強制移住、マケドニアの守備隊を受け入れることを強いられた[6]。
註^ ディオドロス, XVIII. 9-12
^ プルタルコス, 「フォキオン」, 24
^ ibid, 25
^ ディオドロス, XVIII. 13-17
^ ibid, XVIII. 17
^ ibid, XVIII. 17-18
参考文献
⇒ディオドロスの『歴史叢書』の英訳
プルタルコス著、河野与一訳、『プルターク英雄伝』(9)、岩波書店、1956年