クラウス・フォン・シュタウフェンベルク
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カロリーネの母ヴァレリエの祖父はプロイセン参謀本部の創設者の一人であるプロイセン元帥アウグスト・フォン・グナイゼナウ伯爵であった[2][3][6][7]

クラウスは双子二組の四人兄弟であり、三男であった。兄に1905年3月15日生まれのベルトルトとアレクサンダー(ドイツ語版)の双子があり、またクラウスと同じ1907年11月15日に双子の弟コンラートが生まれている。ただしこのコンラートは生後一日にして死亡した[4]。クラウスと兄たちとの関係は幼い頃から終生緊密であった[8]シュタウフェンベルク一家が暮らしていたラウトリンゲン城(Schloss Lautlingen)。

クラウスが子供の頃に親しんだ場所は父の公邸があった王都シュトゥットガルト、ラウトリンゲンの自宅(ラウトリンゲン城)、またイェティンゲンやアーメルディンゲンやグライフェンシュタインといった親類の家々などである。庭園巡り、ヴュルテンベルク王家との交流、茶会サロンなどはシュタウフェンベルク家のお決まりの行事だった[9]

1916年にシュトゥットガルト一の名門ギムナジウムであるエーベルハルト=ルートヴィヒ・ギムナジウム(ドイツ語版)に入学した。シュタウフェンベルクの成績は上位だったが、1918年1月、第一次世界大戦の戦況の悪化で石炭不足のために学校が閉鎖された[10][11]ベ。

大戦末期の1918年11月、ヴュルテンベルク王国でも革命が勃発し、シュタウフェンベルク家が仕えたヴュルテンベルク王家が崩壊した。父アルフレートは宮宰コンスタンティン・フォン・ノイラート男爵(後のヒトラー内閣外相)とともに最後まで国王に仕えた。アルフレートはシュトゥットガルトを離れた王と王妃を隠遁先のベーベンハウゼン(ドイツ語版)のシトー会修道院までお供している。また国王の私有地と恩給についてヴュルテンベルクの新政府と交渉にあたったのもアルフレートだった。王家の宮殿や所領の大部分はヴュルテンベルク政府に接収されたが、一部の土地は民法の適用を受ける私有地として国王のもとに戻すことに成功した。貴族の所領も民法の適用を受ける私有地としてほぼ存続させた。ヴィルヘルム2世の皇太子アルベルト公爵は、アルフレートを「王の最も忠実な臣下の一人で、あの悲しい日々にあっても冷静さを失わなかった唯一の人物」と評した。クラウス・フォン・シュタウフェンベルクはこの年の11月15日の誕生日を最も悲しい誕生日と評し、祝いを拒絶した。クラウスは王がなにも抵抗せずに去った事に一番落胆したという[12]

戦後、兄二人とともにシュトゥットガルトの学校へ戻った。しかしクラウスは病弱であったため、学校を休んで家庭教師に教わる事が多かった。1923年頃にはシュタウフェンベルク家の三人の子供たちはロマン主義神秘主義貴族主義的な哲学者・詩人シュテファン・ゲオルゲの弟子となり、彼から深い影響を受けるようになった[8][11][13][14]ウィ。

クラウスは芸術を愛し、はじめ音楽家を目指した。しかしやがて音楽の才能はないと悟り、その後、建築家を志した。1923年1月24日に学校で書いた作文には建築家への夢が書かれている[15]1926年アビトゥーアに合格する[8]
ヴァイマル共和国軍時代1926年、第17騎兵連隊に入隊した際のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク

音楽家や建築家を目指した時期もあったクラウス・フォン・シュタウフェンベルクだったが、最終的には軍人の道を志し、1926年4月1日バイエルン州バンベルクに駐留するヴァイマル共和国軍第17騎兵連隊に入営した[11][16]。シュトゥットガルトに駐留する第18騎兵連隊ではなく、バンベルクの第17騎兵連隊に志願したのは、この連隊がヴェルサイユ条約後に縮小された既存の連隊を合併させて作られた騎兵連隊であり、その中には伯父ベルトルトが大佐を務めていた旧バイエルン重騎兵連隊も含まれており、その縁故を期待したためと思われる[17]。しかし一族からは「高位の貴族が共和主義の軍隊に仕えるとは何事」と不評であったという[18]

1927年8月18日には伍長士官候補生となった。1927年10月から1928年8月までドレスデンの歩兵学校に在学して士官候補生としての訓練を受けた。さらに1928年10月から1929年8月にかけてはハノーファー騎兵学校に入学した。将校任官試験に騎兵の首席で合格し、1930年1月1日に少尉に任官した[11][16][19]1930年に作成されたクラウス・フォン・シュタウフェンベルクの頭像

1930年11月15日にニナ・フォン・レルヒェンフェルト(ドイツ語版)男爵令嬢と婚約。彼女の父グスタフ・フォン・レルヒェンフェルト男爵はかつてバイエルン王室の侍従長だった人物でシュタウフェンベルクが所属する第17騎兵連隊の将校をよくもてなしていた。その縁で二人は知り合うことになった。1933年9月にバンベルクで挙式した[20]

1930年11月から1931年2月にかけてはポツダムで迫撃砲の研修を受け、バンベルクに戻った後に第17騎兵連隊の迫撃砲部隊の指揮官となった[21]


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