クライナ・セルビア人共和国
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しかしユーゴスラビア崩壊の兆しがいよいよ強まるにつれ、クロアチアの政治家たちはユーゴスラビアからの完全独立を目指すようになり、ユーゴスラビア憲法はクロアチアにおける法的な効力を失っていった。クロアチアのセルビア人政治家は議会を退席することによって抵抗の意を示した。

クロアチアのセルビア人は1990年7月に独自のセルビア人国家議会を設置し、クロアチアの独立に反対の姿勢を示した。彼らは、もしクロアチアがユーゴスラビアから分離することができるのなら、クライナはクロアチアから分離することができると考えた。クライナ南西部のクニン出身の歯科医であったミラン・バビッチ(Milan Babi?)は、クライナの大統領に選出された。抵抗するクロアチアのセルビア人は、クニンの警察署長ミラン・マルティッチ(Milan Marti?)の指導の下、複数の準軍事組織を結成した。

1990年8月、クロアチアにおけるセルビア人の「独立と自治」を問う住民投票がクライナで実施された。決定は完全にセルビア人のみに限定され、99.7%の賛成で採択された。クロアチア政府は当然、この決定を違法で無効なものと認定し、セルビア人はクロアチアの国土を解体する憲法上の権利を持たないとした。1990年12月21日、バビッチの当局は、クライナ・セルビア人自治州(en)の設置を発表した。1991年3月16日、新たな住民投票が実施され、「クライナ・セルビア人自治州をセルビア共和国と併合し、セルビア、モンテネグロおよびそのほかのユーゴスラビアを維持したい国と共にユーゴスラビアの一部に留まることに対する賛否」を問うた。99.8%がこれに賛成票を投じて投票は可決された。クライナ議会はこれを受けて「クライナ・セルビア人自治州は憲法上の不可分のセルビア共和国の一部である」と宣言した[1]1991年4月1日、議会はクロアチアからの分離を宣言した。自治州の外にあるセルビア人が多数派を占める地区でも、自身がクライナの一部に加わり、ザグレブの政府への税金の支払いを停止すると発表した。自治州は、独自の通貨、軍、郵便サービスを構築しはじめた。

クロアチアは1991年5月19日にユーゴスラビアからの独立を問う住民投票を実施し、多くのセルビア人がボイコットする中、圧倒的多数でユーゴスラビアからの独立を支持した。1991年6月25日、クロアチアとスロベニアは共にユーゴスラビアからの独立を宣言した。ユーゴスラビア人民軍はスロベニアの独立阻止を図りスロベニア紛争を引き起こし、短期間の後にこれに失敗している。これと同時期に、クロアチアのセルビア人とクロアチアの治安維持軍との衝突が発生し、双方に多数の死者が出た。セルビア人たちの中には、自身を「チェトニック」と呼ぶものも現れた[2]。クライナのセルビア人はユーゴスラビア人民軍の支援を受け、武器を供与された。クライナ領内にいた多くのクロアチア人は弾圧を恐れてクライナを脱出するか、セルビア人勢力によって強制的に退去させられ、故郷を後にした。欧州連合国際連合は停戦合意や和平を模索し仲介に入ったものの、何ら成果を得ることはできなかった。

1991年8月、クライナとセルビアの指導者たちの間で合意が取り交わされた。旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷の検察官は、のちにこれを、「クライナをセルビア人の支配する土地に変える目的での、クライナ領内からの非セルビア系住民の恒久的かつ武力による強制追放に乗り出すという、共同犯罪の企て」と説明している[3][4]。このときの指導者たちの中には、ミラン・バビッチや、そのほかのクロアチアの反乱セルビア人勢力の有力者であるミラン・マルティッチ(Milan Marti?)や、セルビアの武装勢力の指導者であるヴォイスラヴ・シェシェリ(Vojislav ?e?elj)、当時はクロアチアにおけるユーゴスラビア人民軍の指揮官であったラトコ・ムラディッチ将軍などが含まれる。

その後のバビッチに対する戦犯法廷におけるバビッチの証言によれば、1991年の夏にスロボダン・ミロシェヴィッチの指揮下にあるセルビアの秘密警察によって、「クライナの治安・警察機関と、セルビア治安当局による2重構造」が構築されたとしている。「Vukovi sa Vucjaka」(ヴツャクの狼)や「Beli Orlovi」(白い鷹、White Eagles)などと名乗る不明瞭な準軍事組織がセルビアの秘密警察によって組織され、この2重構造の要となっている[5]

より大規模な戦争は1991年8月に始まった。その後数ヶ月にわたって、クロアチアの国土の3分の1を占めるクライナ地方一帯は、セルビア人反乱勢力によって支配された。地域のクロアチア人住民は弾圧を受けて地域から脱出したり、多くの殺害を含む強制的な立ち退きを迫られるなど、民族浄化へとつながっていった[6]。8月から12月にかけてが戦闘のピークであり、1991年12月の時点でおよそ8万人のクロアチア人が追放されるか殺害された[7]。更に多くが西スラヴォニアの戦闘でも死亡するか脱出した。クロアチアとセルビアの国境地帯はこのときはクライナではなく、この衝突で中心的役割を果たしたのはユーゴスラビア人民軍であった。この間に発生したゴスピッチの虐殺(en)はクロアチア軍によるセルビア人住民に対する虐殺のひとつである。

1991年12月19日、クライナ・セルビア人自治州は自身を「クライナ・セルビア人共和国」と宣言した。1992年2月26日、それまでクライナ地区のみを領有していたクライナ・セルビア人共和国に、西スラヴォニア・セルビア人自治州、スラヴォニア・セルビア人自治州、バラニャおよび西スレムも加わった。1992年3月19日、クライナ・セルビア人軍(Српска Во?ска Кра?ине / Srpska Vojska Krajine)が公式に結成された。クライナ・セルビア人共和国は最大時には17,028平方キロメートルを支配した。クロアチアは当時、軍と防衛の主力、地域警察を構築中であり、セルビア人勢力を支援するユーゴスラビア人民軍に対して劣勢であった。クライナ・セルビア人共和国は完全に内陸に位置していたが、クロアチアの領土の深くへと侵攻していった[6]。クライナはクロアチアの沿岸の都市ザダルを包囲し、周辺地域にいた80人を殺害、クロアチアの南北を結ぶマスレニツァ橋(Maslenica)を損害した。セルビア人勢力は更にシベニク制圧を試みたが、クロアチア側は防衛に成功し、ユーゴスラビア人民軍を退けている[8]

しかしながら、ヴコヴァルの町はユーゴスラビア人民軍の攻撃によって完全に破壊された[9]。ヴコヴァルの町はユーゴスラビア人民軍による数ヶ月にわたる攻撃にさらされた。2千人のヴコヴァルの防衛側の戦闘員および市民が殺害され、800人が行方不明、2万2千人が脱出を強いられた[10][11]。負傷者はヴコヴァル病院からオルチャラ(Ov?ara)に移送され、殺害された[12]
1992年の脆い停戦

1992年1月、クロアチア大統領のフラニョ・トゥジマンとセルビア大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチとの間で停戦合意が交わされ、サイラス・ヴァンスが推進した国際連合による和平案にむけての道筋をつけた。ヴァンス和平案では、4つの国連保護区(UNPAs)がクロアチア領内のクライナ支配地域に設置された。ヴァンス案はユーゴスラビア人民軍のクロアチア領からの撤退と、脱出した避難民の故郷への帰還を求めた。ユーゴスラビア人民軍は1992年の5月に公式に撤退したものの、多くの軍の武器と構成していた人員がクライナに留まり、クライナ・セルビア人共和国の治安維持軍に加わった。避難民の帰還は認められず、その後もクライナに留まった多くのクロアチア人およびそのほかの少数民族が追放されるか殺害された[9][13]。1992年2月21日、国連保護区の治安を維持するために国連安全保障理事会によって国連保護軍の結成が決定された。合意によって、その後3年間にわたってクロアチア側とクライナ・セルビア人との前線は凍結・維持された。クロアチアとクライナの実際の戦闘は停止された。クライナ・セルビア人共和国はこの間、いかなる国家や国際機関からも法的な承認を得ることは出来なかったものの、セルビアに友好的なギリシャルーマニアおよびロシアからの支持を得た。

1992年12月30日にクロアチアの郡が設置された際、クロアチア政府はこのほかに2つのセルビア人の自治地域(kotar)をクライナ地域に設定した。しかしながら、これはクライナ側が求めていた自治の水準に達しておらず、現時点においてクライナは事実上の独立国であるとして、クライナのセルビア人側はこれを既に遅すぎると判断した。War in former Yugoslavia

国連保護軍は停戦を維持するためにクライナ地域に広く展開したが、軽武装と多くの制約が課せられ、実際には停戦監視軍の役割を大きく超えることはなかった。保護軍は避難民のクライナへの帰還の安全を保障することは全くできていなかった。それどころか、実際にはクライナ・セルビア人共和国では、セルビア人武装勢力が実効力を持ち、避難民の帰還を不可能としていた。彼らは、クライナにおいてクロアチア人の村落や文化的・宗教的建築物を破壊し、クライナ地域に存在したクロアチア色を一掃するための活動を推し進めていた[9]


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