またこの頃は、アメリカ経済が絶頂期にあり年々販売台数が伸びていたことや、輸入車との販売競争もほとんど存在しなかったもあり、テールフィンがつき、高馬力エンジンを積んだ利幅の大きい大型車(フルサイズ)が人気を博し、高性能な大型車が得意なクライスラーにとっての絶頂期でもあった。クライスラー系各車のデザイン尖鋭化は、エクスナーのバロック趣味が強まって普遍性から遠ざかり始めても1961年モデルまで続き、エクスナーが心臓発作で一時休職したのを機に彼が更迭されたことで、ようやくデザインの穏健路線への変更が為された。 この頃、クライスラーを率いていたリン・タウンゼンド(Lynn Townsend)は、1960年代初頭にまずスペインの商業車メーカーであるバレイロスの経営権を掌握、続いて1963年にフランスのシムカを強硬な資本介入で乗っ取り、さらに1967年にはイギリスのルーツ・グループを買収。これら3社を「クライスラー・ヨーロッパ」として組織し、フルラインナップでの展開を行った(これらは1981年にPSA・プジョーシトロエンへ売却)。 これらに先立つ1960年には、オーストラリアに生産拠点を設けた(のちに日本の三菱自動車に売却)他、既に現地で生産を行っていたシムカの設備を利用してブラジルでもトラックを含むフルラインナップの生産を開始するなど(1980年にドイツのフォルクスワーゲンに売却)、本格的な世界進出を開始した。 しかし、これらは「負け組連合」と称されたような各国の弱小メーカーの寄せ集め的な買収の繰り返しであり、吸収合併による合理化やスケールメリットすらもたらすことのない有様であった。さらに高級志向で展開していた「デソート」は「インペリアル」と競合するなど、フルラインナップを目指すあまり、社内ブランドの乱立により販路が混迷に陥っていた。そのため、デソートは1960年11月に廃止された。 また、日本や西ドイツの小型車との競争が激化するにもかかわらず、当時アメリカ国内で行われた無理な生産拡大が、結果的に品質低下と販売不振による過剰在庫、リコールの多発をもたらした。 さらに1979年に起きたイラン革命以降の第二次石油危機と、その後の石油価格の上昇を受けたアメリカ国内における日本車、西ドイツ車の急激なシェア拡大、それに反比例した利幅の大きいフルサイズカーの販売不振が追い討ちをかけた結果、1970年代後半には深刻な経営危機となり、運営資金が枯渇する状況に陥った。 経営危機の真っ只中の1978年に、フォード・モーターの社長をつとめていたものの、同社会長のフォード2世との対立から同年に解雇の憂き目にあっていたリー・アイアコッカが新たに社長に就任した。1979年にアイアコッカは、連邦政府と議会からストックオプションと引き換えに、15億ドルのローン保証を得ることに成功した。 しかし、アイアコッカの就任直後に運営資金が底をついたことから、第二次世界大戦以前より同社の収益の大きな柱であった軍需産業部門の売却を余儀なくされた他、大規模な人員削減を行うなど、苦難の時を迎えることとなった。 1987年には、アイアコッカの指示のもと、当時フランスのルノー傘下で、「ジープ」ブランドを所有するアメリカ第4位の自動車会社であるアメリカン・モーターズ(AMC)を買収したが、当時ルノーのバッジエンジニアリング車を中心に展開していたAMCが深刻な販売不振に陥っていたこともあり、シェアにおいてはビッグ3の他2社を上回ることはできなかった。 しかし、同社の販売網を組み込むことでアメリカ国内の販売力が拡充した上、ジープ・チェロキー(2代目・XJ)が予想外のヒットとなるなど、同社が展開していた「ジープ」ブランドの各車は、その後クライスラーに大きな売り上げをもたらすことになる。 その後、イタリア系のアイアコッカの指示のもとで、アイアコッカの友人で、フォード時代からの友人のアルゼンチン系イタリア人のアレッサンドロ・デ・トマソ また同時期にはイタリアの高級自動車メーカーであるランボルギーニを買収し、F1にも参戦したが、これらのイタリアブランドとの提携は「アイアコッカの趣味」としかえないもので、全て短期間の失敗に終わっている。
拡張路線
経営危機
アイアコッカ時代
AMC買収
アイアコッカの趣味