クビライ
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脚注[脚注の使い方]^ モンゴル語で「賢きカアン」を意味する。
^ 『フビライ』 - コトバンク
^ モンゴル語ではダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス (Dai-on Yeke Mongγol Ulus) すなわち「大元大蒙古国」と称したもの。『元史』世祖本紀巻七 至元八年十一月乙亥(1271年12月18日)条にある詔に、「可建國號曰大元、蓋取易經「乾元」之義。」とある。これは『易経』巻一 乾 に「彖曰、大哉乾元、萬物資始。」とある文言に基づいていた。
^ 吉川幸次郎「元の諸帝の文学(一) : 元史叢説の一」『東洋史研究』8-3, 1943年8月、pp.169-181
^ 宮紀子「序章」『モンゴル時代の出版文化』2006年、pp.8-9
^ コンギラト部族首長家アルチ・ノヤン家の子女。当主アルチ・ノヤンの娘で、姉妹にはジョチの正妃でバトゥの生母オキ・フジンらがいる。
^ コンギラト部族首長家アルチ・ノヤン家の子女。1281年、チャブイが逝去した後、クビライの希望によりチャブイの後任として皇后に迎えられ右大オルドを引き継いだ。『集史』コンギラト部族志によればアルチ・ノヤンの息子ナチンの娘としているが、『元史』巻百十四 后妃列伝 南必皇后条によると、ナチンの孫である仙童(オラチンの息子)の娘としている。
^ 泰定帝イェスン・テムルの妃となっていたが、泰定三年(1326年)にクビライのオルドを守るよう詔を受けた。
^ 『集史』での表記は ????? T?rj? ないし ????? D?rj?。クビライの長子で、チャブイ皇后との間に儲けた四人の息子たちの長男。『集史』によると、イルハン朝アバカの治世(1265年 - 1282年)まで存命だったらしい。
^ 『集史』での表記は ??????? Q?r?d?y。生母はメルキト部族の首長トクトア・ベキの兄弟クトゥの娘だったトゥルキジン・ハトゥン。
^ 『集史』での表記は ?????? H?k?ch?。生母はドルベン部族出身のドルベジン・ハトゥン。七男アウルクチの同母兄。
^ 『集史』での表記は ???????? ?ghr?qch?。生母はドルベン部族出身のドルベジン・ハトゥン。七男フゲチの同母弟。
^ 『集史』での表記は ?????? ?b?ch? または ?????? ?y?ch?。生母はチンギス・カンに仕えたフーシン部族出身の功臣ボロクルの娘、フウシジン・ハトゥン。同母弟に九男ココチュがいる。高麗国王忠烈王に降嫁したクトゥルク=ケルミシュもクビライと彼らの生母フウシジンとの娘ではないかと推測されている。
^ 『集史』での表記は ????? K?kuch?。生母はフウシジン・ハトゥン。八男アバチ(アヤチ)は同母兄。1271年、異母兄ノムガンが中央アジアのカイドゥの鎮圧のため幕僚の右丞相アントンとモンケ家、アリクブケ家などの諸王族とともに派遣されアルマリクに駐営した際に、ノムガンに随行した。しかし、1276年にモンケ家のシリギを中核とする他のトルイ家の王族たちが反乱を起こし(いわゆる「シリギの乱」)、ココチュは捕縛され西方の有力王族たちの協力を欲したシリギらにより人質としてカイドゥのもとに連行された。しかし、カイドゥやジョチ・ウルスはシリギ一統の要請を拒絶し、クビライが南宋戦線からバヤンを派遣して乱を鎮圧すると、ココチュもクビライのもとへ送還された。
^ 『集史』での表記は ??????????? Q?tl?q-T?m?r。生母不詳。アリクブケとの皇位継承戦争中に誕生し、20歳で亡くなったという。
^ 『集史』での表記は ????? T?q?n。生母はバヤウト部族出身のバヤウチン・ハトゥン。1285年チャンパ王国遠征のために南方へ派遣される。しかし、途中通過したベトナムの大越陳朝で兵糧などを過剰に徴発したため陳朝の反乱を招き、暑熱と激しい抵抗に苦しんだ。最終的に陳朝の再度の服属は得たが、諸将の戦死など派遣軍の激しい損耗を招いたことをクビライに咎められ、蟄居を命じられたと伝えられる。
^ 生母は第二オルドのナンブイ皇后。
^ 森平雅彦 2008.
^ 斉国大長公主。『元史』巻109・諸公主表では「斉国大長公主忽都魯堅迷失」とある。後の荘穆王后。
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