22歳の時にマンハッタン・ビーチのビデオショップ「マンハッタン・ビーチ・ビデオ・アーカイブ」(Manhattan Beach Video Archives)の店員となり、ロジャー・エイヴァリーや客と様々な映画について語る日々を過ごす[7]。1995年に同店が閉業した際には商品のビデオテープを買い取り、自宅に店内を再現している[8]。
タランティーノは、ポッドキャスト番組「ザ・モメント」に出演した際、名声を博す以前、出世する夢を母親のコニーにこき下ろされたと明かした。母親はタランティーノに対して指で引用符を表すジェスチャーをしながら、彼の「取るに足りない作家人生」は終わったと言ったという。
「僕はね、『分かったよ、ご婦人。僕が有名な作家になっても、僕の出世では1ペニーも目にすることはない。あなたのための家もない。お母さんのためのバカンスもエルビスが乗るようなキャデラックもない。何ももらえないよ、そんなことを言ったからね』と話したんだ」とタランティーノは回想した。
映画への取り組み第82回アカデミー賞にて女優ダイアン・クルーガーと
ハリウッドのパーティでローレンス・ベンダーに出会い、脚本を書くように勧められる。タランティーノは1987年に『My Best Friend's Birthday』という作品を監督し、共同で脚本も書いている。この作品はラボでの編集中に火災で危うく失われるところであったが、この作品が後の『トゥルー・ロマンス』(トニー・スコット監督)の元ともなった[9]。
タランティーノは『レザボア・ドッグス』で脚本家・映画監督としてデビューした。脚本が米映画俳優のハーヴェイ・カイテルに認められ、彼の出演だけでなくプロデュースも受けた[10] 本作は、カルト的ヒットを記録。第45回カンヌ国際映画祭にも特別招待作品として出品され、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭では南俊子賞(批評家賞)を受賞、映画祭期間中には次回作『パルプ・フィクション』を執筆した。
世界的にも配給され、タランティーノはデビュー作にして注目されることとなるが、監督二作目『パルプ・フィクション』では早くも第47回カンヌ国際映画祭で最高賞にあたるパルム・ドールを始め、数々の賞に輝き、米アカデミー賞では脚本賞も受賞、新しい米映画の旗手として認知されるに至った。1997年に公開されたエルモア・レナード原作による監督三作目『ジャッキー・ブラウン』では、深みのある演出が評価され、主演のサミュエル・L・ジャクソンが第48回ベルリン国際映画祭で銀熊賞 (男優賞)を受賞した。
1998年には舞台『暗くなるまで待って』に俳優として出演[11]。一時期沈黙したが、『キル・ビル Vol.1』『キル・ビル Vol.2』で復活した。2004年には第57回カンヌ国際映画祭の審査委員長を務め、『誰も知らない』の柳楽優弥に史上最年少の男優賞をもたらした。
2009年には、ブラッド・ピットを主演に迎え、第二次世界大戦中を舞台に、架空のナチス殺し部隊を描いた異色のサスペンス映画『イングロリアス・バスターズ』を発表。第62回カンヌ国際映画祭でお披露目され、ナチスの軍人を演じたクリストフ・ヴァルツが男優賞を受賞。第82回アカデミー賞では、8部門にノミネートされ、クリストフ・ヴァルツが助演男優賞を受賞した。
2010年には第68回ヴェネツィア国際映画祭の審査員長を務め、元恋人のソフィア・コッポラに金獅子賞を授与した。
2012年には、黒人奴隷が主役の西部劇『ジャンゴ 繋がれざる者』を発表。第85回アカデミー賞で、タランティーノが脚本賞、クリストフ・ヴァルツが助演男優賞を再び受賞した。
新作『ヘイトフル・エイト』脚本流出問題と再スタート