クウェート
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サバーハ家は、サウジアラビアサウード家を輩出したスンナ派のアナイザ族(英語版)出身のバニー・ウトバ族(英語版)で、バニー・ウトバ族はアラビア半島中部より移動してきたと考えられており、バーレーンハリーファ家や有名なen:Buccaneerの片目の船長en:Rahmah ibn Jabir al-Jalahimahを輩出したen:Al Jalahmaもその一族である。このころのクウェートは漁業真珠の採集、交易が主な産業であった。1783年には、ファイラカ島ブビヤン島の中間にある浅瀬リッカでバヌー・カアブ(英語版)と呼ばれるアラブ系の一族とリッカの戦いと呼ばれるものが起きて勝利した。後にバヌー・カアブはフーゼスターンへ移動した。バヌー・カアブが攻撃を行った理由は諸説ある。今日のクウェートの君主と国民の祖形として国史の重要な位置を占める。第一次サウード王国がクウェートに侵攻した際にアブドゥッラー・ビン・サバーハ・ビン・ジャービル・アッ=サバーハイギリス東インド会社との関係を構築した。
イギリスムバラク大首長

19世紀に入ると、オスマン帝国 (en:Egypt Eyalet) は支配の綻びを繕うために当地へ軍事介入を繰り返し(オスマン・サウジ戦争)、1871年アブドゥッラー2世・アッ=サバーハはオスマン帝国バスラ総督となり、オスマンの庇護下(バスラ州は自治州)に入った。1899年サバーハ家のムバラク大首長は中東の植民地化を図っていたイギリスへ寝返り、イギリスの影響下に入り当地域を統治した。1899年イギリスの保護領となる。1913年にはオスマン朝とイギリス間で協定が結ばれ (en:Anglo-Ottoman Convention of 1913)、1914年にはイギリスの保護領となった。1914年イギリスの自治保護領となる。第一次世界大戦においてはオスマン朝は敗北し、イラク地域と共にイギリスの植民地となる。

1919年、クウェート・ナジュド国境戦争(英語版)。1920年10月10日、en:Battle of Jahra。1922年オカイル議定書によりサウジアラビアとの国境が画定した。サウジアラビアとの間には広大な中立地帯が設けられた。

1930年代初頭、天然真珠の交易が最大の産業で主要な外貨収入源であったクウェートは、深刻な経済危機下にあった。それは当時、日本御木本幸吉が真珠の人工養殖技術開発に成功、これによって日本製養殖真珠が世界の宝石市場に徐々に浸透し、クウェート、バーレーン沖合で採取される天然真珠の需要を駆逐したことがその主たる理由である[4]。それまでにイラク王国、バーレーンにおいて石油が発見されていたのでクウェートの首長、アフマド首長とクウェート政府は、新しい収入源を探すため石油利権をアメリカメロン財閥が保有するガルフ石油とイギリスのアングロ・ペルシアン石油(英語版)の設立した50/50合弁会社『クウェート石油会社』に付与した。クウェート石油は1938年2月23日に、現在のブルガン油田となる巨大油田を掘り当てた。世界第二位の油田であるブルガン油田1946年より生産を開始しており、これ以降は石油産業が主要な産業となっている。
独立

イギリス支配からの独立は1961年のことである。1961年6月19日、イギリスから独立。7月1日、en:Operation Vantage。1962年、第1回クウェート国民議会選挙が行われた。

湾岸危機直前の1990年1月には、1986年以降閉鎖されたままであった国民議会の再開を求めた民主化勢力が弾圧されるという事件も起きている。この弾圧を受けてクウェート国民の間で大規模な抗議デモが起こり、政府は国民議会を再開したという経緯がある。しかし、1990年の議会選挙は大半の議席が首長の任命制であったため、民主化勢力は選挙をボイコット。投票率も選挙が行われた年である85年の80%から、55%と低下した。
クウェート侵攻炎上するクウェートの油田

以上のような経緯から、クウェートに対するイラクの主権を認めさせようする流れが常にあった。イラクが共和制になっても初代首相のアブドルカリーム・カーシムがクウェートの領有権を主張した。1980年代以降には、イラクの世論を受けたサッダーム・フセイン大統領が、クウェートはイラクの領土であり、イギリスによって不当に分離され、現在はアメリカ合衆国がそれを引き継いでいる旨を内外へ発信した。1990年8月2日クウェート侵攻でイラクに一時併合される。侵攻直後にイラク傀儡の暫定政府の樹立が宣言され、共和制移行を宣言し国名をクウェート共和国としたあと、イラクに併合された。イラク統治下では同国のバスラ県の一部と、新たに設置された「クウェート県(英語版)」となった。一連の軍事制圧については国連において非難決議が出され、1991年1月にアメリカを中心とした多国籍軍とイラクとの間で湾岸戦争が勃発した。1991年2月26日、イラクによる占領から解放。
女性参政権

女性参政権は、バーレーンカタールオマーンなど他の湾岸諸国が先に確立した。2005年女性参政権獲得(選挙権は21歳から、被選挙権は30歳から)。2006年6月29日、第11回クウェート国民議会選挙が行われた。定数2の25選挙区で計50の議席を249人の候補者が争った。2005年の女性参政権獲得後初の選挙で、249人の候補者のうち28人が女性であったが、初の女性議員は実現しなかった。有権者数34万248人(女性は19万5,000人)、投票数22万3187人(投票率は65.6%)であった。[5]イスラム主義者を中心とする野党勢力が、改選前の29議席から33議席に増加し、過半数を占めた。7月1日、サバーハ首長は、野党勢力が伸張した国民議会選挙の結果を受け、内閣総辞職を受け入れた。

2009年5月16日のクウェート国民議会選挙(定数50)で初の女性議員4人が誕生した。マアスーマ・アル=ムバーラク、サルワ・アル=ジャサール、アシール・アワディー、ローラー・ダシュティーの4人で、いずれも博士号を持つ教育や経済の専門家。アワディ議員は2009年秋、髪を覆うベールを着用しなかったとして罰金を科されたが、その後の訴訟で「ベール着用は女性個人の自由」との判断を勝ち取っている[6]

2012年2月の国民議会選挙では野党勢力が大きく勝ち越したがその後憲法裁判所により選挙無効が宣言され、野党がボイコットする中で12月1日に改めて行われた国民議会選挙は政府派の圧勝に終わった[7]

2020年の議会選挙では女性が一人も当選できなかったが、2022年9月に行われた議会選挙では女性候補が2人当選している[8]
政治.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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