クイーンは、音楽的嗜好の異なるメンバー全員が作曲に参加するため、プログレッシブ・ロック、アート・ロック、グラムロック、アリーナ・ロックなど、その作風は幅広い。しかしながら、多くの曲に共通して見られる特徴がある。
そのひとつとして、エレクトリック・ギターの音を多重録音することによって作られるギター・オーケストレーションが挙げられる。これを生み出すメイの手製ギター「レッド・スペシャル」は、机のオークや暖炉のマホガニーを素材にメイの父親と共に製作されたもので[11][12]、当時ではまだ珍しかった位相で音を変えるフェイズスイッチ、ローラーブリッジなどの斬新なアイデアが盛り込まれた。シンセサイザーを用いずにギター・オーケストレーションで重厚なサウンドを生み出していることを明示するため、初期の作品には「ノー・シンセサイザー(No Synthesizer)」というクレジットがなされていた。
マーキュリー、メイ、テイラーの3人が、声を何重にも重ねることによって作られるハーモニーも、『オペラ座の夜』や『華麗なるレース』などで見られるクイーンの音楽的特徴とされている。「ボヘミアン・ラプソディ」でのオペラ風コーラスの録音では、180回ものボーカルの多重録音を行った、とメイが語っている[13]。 クイーンの母体となったのは、ブライアン・メイとロジャー・テイラーが在籍していたバンド「スマイル」であった。1969年9月、シングル「Earth」をリリースするも、まったく成功せず[14]、ボーカル兼ベースのティム・スタッフェルが脱退[15]。その後任として加入したのが、スタッフェルの同級生であり、バンドとも知り合いだったフレディ・マーキュリーであった[16]。 1970年7月12日に開催されたライブから、クイーンと名乗り始める。1971年2月には、入れ替わりを繰り返していたベーシストが、オーディションでジョン・ディーコンに固定(正式加入したのは1971年3月1日)[17]。公式サイトでは、4人が揃った1971年を正式なバンド結成の年としている[18]。 1973年7月13日、アルバム『戦慄の王女』で本国デビュー。リリース1週間前の7月6日には、先行シングル「炎のロックンロール」がリリースされた(日本でのリリースは1974年)。 本楽曲のリリース当初、母国・イギリスでは「ロックなのに曲構成が複雑で、サウンドに小細工が多い」「ディープ・パープルやレッド・ツェッペリン、イエス[注釈 3]の亜流」などとメディアから酷評され、「遅れてきたグラムロックバンド」と見られることもあった。また、彼らは、本楽曲制作からリリースまでに2年近くももたつき、レコード契約から1年以上待機させられたため、「リリース時にはあらゆる意味で、時代遅れになっていた」と、後にマーキュリーが回想している。ニューヘイヴン公演(1977年) 1974年3月8日、2ndアルバム『クイーンII』をリリース。イギリスのメディアの評価はいっこうに変わらなかったが、シングル「輝ける7つの海」のヒットもあり、アルバムは全英5位を記録[19]。本アルバムをきっかけに、本格的なブレイクにつながるようになる。 同年11月8日には、3rdアルバム『シアー・ハート・アタック』をリリース。先行シングル「キラー・クイーン」が全英2位[19]・全米12位のヒットとなり[20]、後にマーキュリーは、作曲者としてアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞。また同年、ディープ・パープル、モット・ザ・フープルの前座として、バンド初の全米ツアーを行うが、メイが肝炎にかかってしまい、ツアーの途中降板を余儀なくされる。 1975年2月、カンサス、スティクスらの前座として、再び全米ツアーを開始する。ツアーは各地で大盛況を得たが、ツアーの途中に、今度はマーキュリーが喉を痛めてしまう。マーキュリーはしばらく安静状態を強いられたが、その後回復し、ツアーを無事終了させる。 同年4月17日、初来日を果たす。この頃、既に日本では若い女性を中心に人気を集めており、空港には約1200人のファンが押し寄せ、日本武道館で開催されたライブは成功を収めた[21]。 10月31日、4thアルバム『オペラ座の夜』からの先行シングル「ボヘミアン・ラプソディ」が、全英9週連続1位の大ヒットを記録[19]。当初、「6分を超える長い曲などラジオで流してくれない」と、レコード会社側は曲のカットを指示したが、マーキュリーとテイラーに意見を求められたラジオDJのケニー・エヴェレット
現役時代の来歴
デビューまで
初期(1973年 - 1976年)