クイズ番組
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日本におけるテレビのオリジナルのクイズ番組の第一号は、1953年2月5日スタートのNHK『私の仕事はなんでしょう[4]である(ちなみに、1953年2月3日には、当時ラジオで圧倒的な人気を誇ったクイズ番組『三つの歌』のテレビ版が放送されており、これが日本で初めてテレビで放送されたクイズ番組となる[5])。その後、民放テレビが開始され、娯楽性を強調したクイズ番組が次々と登場することになる。

クイズ番組は大掛かりなセットを用意する必要性がなく、出演者も比較的低予算で揃えやすいことから、改編期の特別番組や別番組打ち切り後のつなぎ番組として用いられることが多い。
欧米番組のフォーマット輸入

1980年代までは、欧米の有名クイズ番組のフォーマットを利用した翻案番組[注 2]が数多く見られた。

NHK『私の秘密』←アメリカ『I've Got a Secret』、フジ系列『クイズグランプリ』←アメリカ『ジェパディ!(Jeopardy!)』、TBS系列『クイズ100人に聞きました』←アメリカ『ファミリー・フュード』、TBS系列『ザ・チャンス!』←アメリカ『ザ・プライス・イズ・ライト(The Price Is Right)』、TBS系列『クイズダービー』←アメリカ『Celebrity Sweepstakes』がその代表である。
視聴者参加型全盛期とクイズ番組の賞金上限の制限

視聴者参加型番組では、例えば「ベルトクイズQ&Q」(初期は最高賞金270万円)や「クイズタイムショック」(初期は全問正解者に対しての賞金・賞品の上限なし。賞金100万円に加え、副賞に自動車もあった)などのように高額の賞金・賞品を獲得した視聴者芸能人文化人もいた他、「アップダウンクイズ」(初期はハワイ旅行と副賞賞金20万円)や、「オリンピックショウ 地上最大のクイズ」(「オリンピック…」時代は賞金100万円。後期シリーズの「ジェットショー・地上最大のクイズ」では賞金100万円と世界一周旅行)、「ズバリ!当てましょう」(3週勝ち抜きの場合、ナショナル家電製品一式と世界一周旅行)などがあった。

当初、賞金・賞品の規制は無制限だったが、1971年にフジテレビで放送された「クイズ・キングにまかせろ!」でトップ賞の賞品に「1室1000万円相当の東京都用賀マンション」がかけられたことで、公正取引委員会から「余りにも高額の賞金・賞品だと視聴者の射幸心をあおる」として、厳重注意を受けた[6]。これがきっかけで公取委は「クイズ番組・歌合戦番組・ゲーム番組・さらにはテレビ・ラジオ番組のプレゼント・商品・雑誌を含むオープン懸賞企画における賞金・賞品の総額は100万円までを上限とする」という取り決めを設けた。ただし、紳士協定上、製薬会社の一社提供番組に関しては、最大10万円までであり、それ以上の獲得賞金は、番組制作局の募金キャンペーン[注 3]寄付するなどをしていた。

また、『史上最大!第1回アメリカ横断ウルトラクイズ』(1977年)では優勝者の副賞として、当初は「アメリカ合衆国にある土地・2000坪」(のち1エーカー・1226坪に変更)を贈るとしていたが、上述の100万円の上限を超えてしまっていたため、やむなく砂漠のど真ん中にある土地に副賞が変更されたという経緯があり、それ以後も実用性とは大きくかけ離れた賞品(アメリカ横断ウルトラクイズ#大会一覧参照)が優勝副賞とされるようになった。(ただ、それでも第5回=1981年油田採掘権利、第6回=1982年の優勝決定後ただちにニューヨーク発の世界一周旅行といったまともなものはまれにあった)

それでもクイズ人気は冷めやらず、最盛期は1980年代頃であった。その時期は数多くのクイズ番組が放送、ゴールデンタイムでは毎晩どこかの局で必ずといっていいほど放送され、特に『史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ』に至っては年に一度の大型特番として君臨し、全国の大学サークルに「クイズ研究会」ができるきっかけとなった。

だが1985年秋に『アップダウンクイズ』『クイズ天国と地獄』が終了したのを皮切りに、翌1986年3月には『クイズタイムショック』『三枝の国盗りゲーム』『世界一周双六ゲーム』も相次いで終了、視聴者参加型クイズ番組の全盛期は終わりを告げた。
スポーツ型・ショー型・クイズ王

ただ純粋にルールが決められた上で競い合うという形式を取るスポーツ型は、1980年代の後半に生まれたとされる。『アメリカ横断ウルトラクイズ』を受けて多く作られた大学のクイズ研究会が、番組研究を深めることによりクイズのノウハウが蓄積され、長戸勇人能勢一幸田中健一らの活躍、『史上最強のクイズ王決定戦』での西村顕治による伝説的早押しの数々、『FNS1億2,000万人のクイズ王決定戦!』における布川尚之、永田喜彰らのキャラクターへのフォーカスなど、ガチンコ化した番組とそこで活躍するクイズアスリートへの注目、という形で「スポーツ型」の時代が訪れた。

1990年代前半には「クイズ王ブーム」が起こった。『カルトQ』『TVチャンピオン』などのマニアックな知識を問う番組も登場した。

しかし問題のレベルが高くなりすぎたために視聴者離れを起こし、この流れは1990年代半ばまででで[7]、『TVチャンピオン』がしばらく続いた程度となり退潮した。1992年には『史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ』がレギュラー開催を終了し『クイズ100人に聞きました』も終了している。テレビでの活躍の場を失ったプレーヤーは、クイズサークルや有志によって行われるオープン大会などに参加するなどしてクイズを続けた。
タレント出演型の席巻

タレント出演型のクイズ番組の先駆けとして、1980年代の『ヒントでピント』『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ!!』などがある。お笑いタレントをはじめとするタレント同士、タレントと司会者との掛け合いが魅力となり人気となったこのジャンルは、1990年代黄金期を迎え、特に日本テレビ系列の『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』『マジカル頭脳パワー!!』『どちら様も!!笑ってヨロシク』、フジテレビ系列の『なるほど!ザ・ワールド』『平成教育委員会』『クイズ!年の差なんて』が驚異的な視聴率を記録する。
1990年代後半から2000年代
視聴者参加型の激減

1996年4月に賞金規制が緩和され、1000万円に上限が引き上げられた。第一号番組はテレビ東京決戦!クイズの帝王」だった。後にクイズ番組ではないが、TBS「しあわせ家族計画」は賞品総額300万円であった。この他1000万円への引き上げに際して、先ほどの「クイズ$ミリオネア」などの高額賞金番組が登場するようになった。しかし、日本民間放送連盟では、この規制緩和に逆行する形で、参加者1人当たりの賞金の上限を200万円とする自主規制を設けた[注 4]。なお、「クイズ$ミリオネア」などの高額賞金を出すクイズ番組では参加者を含めて複数人の名義(例えば、最高賞金額が1000万円の場合は5人)とすることでこの限度を回避した事例もある。


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