クアラルンプール
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多民族が平和的に共存するマレーシアの首都らしく、多彩な文化が混ざり合ったことがかもし出す賑やかな雰囲気が特徴である。近年は高速道路や市内鉄道モノレールなどのインフラ開発が進み、豊かな緑の中に高層ビルが立ち並ぶ東南アジア有数の近代都市となった。また、東南アジアの大都市には珍しく、市街地が清潔で治安がいいことも特徴である。

アメリカのシンクタンク2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界39位の都市と評価された[4]。東南アジアではシンガポールバンコクに次ぐ3位である。また、日本の民間研究所2016年に発表した「世界の都市総合力ランキング」では、世界39位と評価されており、東南アジアではシンガポールに次ぐ3位である[5]

連邦政府機能を市東南郊外の新行政都市プトラジャヤ(Putrajaya)へ移す計画が進行中。
地理クアラルンプールの衛星画像

面積:243.6平方キロメートル
気候

典型的な熱帯雨林気候で、年間を通して降水量が多い常夏の気候である。4月前後と11月前後が特に降水量が多いが、主に夕立として降り、終日降る日は多くない。

Subang Jaya (Approximation 8 km distance from Kuala Lumpur City Centre)の気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)36
(97)37
(99)37
(99)36
(97)36
(97)36
(97)36
(97)36
(97)35
(95)35
(95)35
(95)35
(95)37
(99)
平均最高気温 °C (°F)32.1
(89.8)32.9
(91.2)33.2
(91.8)33.1
(91.6)32.9
(91.2)32.7
(90.9)32.3
(90.1)32.1
(89.8)32.1
(89.8)32.1
(89.8)31.6
(88.9)31.5
(88.7)32.4
(90.3)
平均最低気温 °C (°F)22.5
(72.5)22.8
(73)23.2
(73.8)23.7
(74.7)23.9
(75)23.6
(74.5)23.2
(73.8)23.1
(73.6)23.2
(73.8)23.2
(73.8)23.2
(73.8)22.9
(73.2)23.2
(73.8)
最低気温記録 °C (°F)18
(64)20
(68)20
(68)21
(70)21
(70)20
(68)19
(66)20
(68)20
(68)21
(70)21
(70)19
(66)18
(64)
雨量 mm (inch)169.5
(6.673)165.4
(6.512)240.9
(9.484)259.2
(10.205)204.4
(8.047)125.3
(4.933)127.2
(5.008)155.7
(6.13)192.8
(7.591)253.1
(9.965)287.8
(11.331)245.7
(9.673)2,427
(95.551)
平均降雨日数 (?1.0 mm)11121416139101113161815158
湿度79797880828079798081827980
平均月間日照時間186.0194.9207.7198.0207.7195.0201.5189.1165.0170.5153.0161.22,229.6
出典1:World Meteorological Organization (normals 1971-2000),[6] Hong Kong Observatory (sun only 1961-1990)[7]
出典2:BBC Weather (records)[8]

地域
マルチメディア・スーパーコリドー

マハティール・ビン・モハマド前首相の指導の下でクアラルンプール南部周辺に建設された、最新のITインフラが整備された総合開発地域が、「マルチメディア・スーパーコリドー」である。その中核となるのは、「サイバージャヤ」と呼ばれるハイテク工業団地と、新行政都市「プトラジャヤ」、クアラルンプール国際空港等で、F1マレーシアGPが行われるセパンサーキットもこの地域内にある。
人口

人口:約180万人。2010年の近郊を含む都市的地域の人口は583万人であり、世界第47位[9]

歴史クアラルンプールの名前の由来となったクラン川とゴンバック川の合流点。白いドーム状の建物はマスジッド・ジャメ
移民者による開発

クアラルンプールはからの移民者によって、スズの採掘拠点として1857年に開発された。彼らはクラン川とゴンバック川の合流点に落ちつき、そこをクアラルンプール、すなわち「泥の川の合流地点」と呼んだ。
イギリスの支配

イギリスに支配された1873?1957年のうちに、スズとゴム産出の中心として発展し、1874年にイギリスの政治介入をスルタンに了承させる内容のパンコール条約を締結。

1896年にはイギリスによって統合された、イギリス保護下のマレー連合州の首都となった。当時は西洋建築とミナレットドーム天井などのモスクの建築様式を融合した建物が多数建設された。スルタン・アブドゥル・サマド・ビルクアラルンプール駅舎などが代表例である。

日本軍による制圧国家記念碑は、第二次世界大戦中の日本による占領支配と、その後のマラヤ危機の戦いの犠牲者を慰霊する。

第二次世界大戦中の1942年1月に、マレー一帯を支配するイギリス軍が日本軍によって制圧される「クアラルンプールの戦い」によって、クアラルンプールは日本の統治下に入ったが、1945年8月の終戦によって再びイギリス統治になった。
独立国成立

1957年8月31日マラヤ連邦がイギリスから独立してクアラルンプールはその首都となり、1963年にマレーシア連邦が結成されてからも同国の首都の座を維持した。

1974年スランゴール州から分離してマレーシアの直轄地域となる。その後もマレーシアは順調に成長を続けていたものの、1997年タイから始まったアジア通貨危機で大打撃を被った。これは第二次世界大戦以来、右肩上がりの成長を続けていたマレーシアが初めて体験する大きな試練だった。翌年1998年は、クアラルンプールがアジアでは初のコモンウェルスゲームズの開催都市となった。

マハティール・ビン・モハマド(1981?2003)はクアラルンプールの発展に多大な貢献をしました。彼のリーダーシップの下、都市は近代化され、経済が成長しました。インフラ整備や都市計画の改善により、クアラルンプールは国際的な都市としての地位を確立しました。

1995年プトラジャヤの開発計画と、連邦政府の同地域への移転が閣議決定された[10]

政治
連邦政府機能移転計画

クアラルンプールに連邦行政機関が点在し、また市内が慢性的な交通渋滞に見舞われており、市内は特に悪化の傾向にある。このため政府は行政機能の非効率性を解決するために、マルチメディア・スーパーコリドー計画の一環としてクアラルンプール郊外のプトラジャヤITを基盤とした行政都市を建設し、連邦政府機能を移転する計画を決定した。プトラジャヤの開発は1995年に着手された。

1999年に首相オフィスと首相府の移転が行われ、2000年以降各省の移転が順次始まる。計画では国防省、連邦議会など一部を除くほとんどの連邦政府機能が2010年までに移転する予定。しかし2011年初頭も計画は継続中。

なお、連邦政府の移転が完了した後も、マレーシアの首都はクアラルンプールのまま[10]


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