ギルバート・ルイス
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1912年、Edwin Bidwell Wilson と共に幾何学を時空に応用するだけでなく、時空の squeeze mapping やローレンツ変換の同一性に注目した数理物理学の重要な論文を発表した[6][7]

熱力学の分野においては活量の概念を生み出し、"fugacity"(フガシティー)という用語を作った[8]

1912年6月21日、ハーバード大学のロマンス諸語の教授の娘と結婚。息子2人と娘1人をもうけ、後に息子は2人とも化学の教授になった。

1913年、米国科学アカデミー会員に選ばれたが、1934年に辞任した。辞任理由は語っていないが、アカデミー内の政争や何らかの地位に任命されなかったことが原因と見られている。辞任を決意させた出来事として、1934年のノーベル化学賞を教え子だったハロルド・ユーリー重水素の発見で単独で受賞したことが挙げられる。ルイスは重水素発見の元となった重水の精製と性質の研究をしており、教え子が受賞するなら自分の研究も受賞に値すると感じていた[9]

1916年、化学結合についての古典的論文 The Atom and the Molecule[10]を発表し、その中で後に共有結合と呼ばれることになる電子の対を原子間で共有する化学結合の考え方を定式化している。また、不対電子を持つラジカルを "odd molecule" と定義した。この論文には電子式の記法や立方体原子模型も含まれていた。これらの化学結合についての考え方をアーヴィング・ラングミュアがさらに発展させ、ライナス・ポーリングの化学結合の研究に着想を与えることになった。

1919年、液体窒素中に酸素を溶かした溶液の磁性を研究し、O4 分子が形成されていることを発見した。これが四酸素の世界初の証拠となった。

強電解質質量作用の法則に従わないことは20年間、物理化学の難題とされていたが、ルイスは1921年にそれを説明付ける経験式を初めて提案した。彼がイオン強度と称した経験式は、1923年に発表された強電界質のデバイ-ヒュッケルの式と合っていることが確認された。

1923年、電子対に着目した酸と塩基の定義を発表。「ルイス酸」は電子対を受け取る物質、「ルイス塩基」は電子対を供与する物質と定義された。同年、化学結合についての学術論文を発表[11]

ウィラード・ギブズにより、化学反応が平衡にまで進むかどうかは関与する物質の自由エネルギーによることがわかっていた。ルイスは25年の歳月を費やして様々な物質の自由エネルギーを特定していった。1923年、Merle Randall と共にその成果を発表[12]。これが現代の化学熱力学の確立に大きな役割を果たした。

1926年、放射エネルギー(光)の最小単位を表す "photon"(光子)という言葉を作った。ネイチャー誌に送った手紙の中に記されていたのだが[13]、その後の展開は彼の意図したものとは違っていた。手紙の中で彼はエネルギーの単位としてではなく構造要素として光子を提案し、「光子数」を新たな変数とする必要性を強調している。1905年にアルベルト・アインシュタインが提唱した「光の量子論」とは異なる理論だったが、"photon" という用語はアインシュタインが「光量子」(ドイツ語では Lichtquant)と呼んだものと同義に扱われることになった。

1933年、史上初の純粋な重水(酸化重水素)の精製に成功[14]。重水中で生命が生存し成長できることを初めて研究した[15][16]アーネスト・ローレンスサイクロトロンで重陽子(重水素原子核)を加速する実験を行い、原子核の様々な特性を研究した[要出典]。

また1930年代には後にノーベル化学賞を受賞したグレン・シーボーグを指導した。
晩年と死

これまでに挙げた以外にもルイスは様々な主題について論文を発表しており、量子の性質から価格安定性のような経済学まで広範囲に渡っている。

晩年には、最後の教え子 Michael Kasha と共に有機分子燐光三重項状態(通常、スピンが逆向きのはずの電子対が励起されて同じ向きのスピンになった状態)によるものだと解明し、三重項状態の磁気特性を測定した[17]

1946年、ルイスがバークレーの研究室で死んでいるのを大学院生が発見した。液体シアン化水素を使った実験をしていて、極めて毒性の強い気体が室内に漏れ出していた。検死官は死因を冠状動脈の異常としたが、自殺だと信じる者もいた。バークレーの名誉教授 William Jolly は1987年にバークレーの化学部門の歴史を描いた From Retorts to Lasers を出版したが、その中で学部の上層部がルイスの死を自殺だと思っていたと記している。

ルイスが亡くなった日、アーヴィング・ラングミュアとルイスが昼食を共にしていたことを Michael Kasha が数年後に思い出した[18]。ルイスとラングミュアは長年のライバル関係にあり、それはラングミュアがルイスの化学結合理論を発展させたころから続いていた。ルイスが何度もノーベル賞候補といわれながら受賞を逃してきたのに対して、ラングミュアは1932年にノーベル化学賞を受賞している。昼食から戻ってきたルイスは暗かったという証言もある。彼が死んでいるのを発見されたのはその数時間後だった。アメリカ議会図書館にあるラングミュアの論文から、その日ラングミュアが名誉学位を受け取るためにバークレー校にいたことが確認されている。
受賞歴

1921年
ウィリアム・H・ニコルズ賞アメリカ化学会

1924年 ウィラード・ギブズ賞(アメリカ化学会)

1929年 デービーメダル王立協会

注釈・出典^ a b .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}"Lewis; Gilbert Newton (1875 - 1946)". Record (英語). The Royal Society. 2012年6月1日閲覧。
^ Edsall, J. T. (November 1974), “Some notes and queries on the development of bioenergetics. Notes on some "founding fathers" of physical chemistry: J. Willard Gibbs, Wilhelm Ostwald, Walther Nernst, Gilbert Newton Lewis”, Mol. Cell. Biochem. 5 (1-2): 103?12, doi:10.1007/BF01874179, PMID 4610355 
^ Coffey 2008, pp. 195?207


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