ギリシャ
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現代のギリシャ人のアイデンティティーはギリシャ正教により形成され、ギリシャの伝統はより広範な正教会に伝播した[5]。ギリシャの豊富な遺産は17件の世界遺産数にも反映され、ヨーロッパや世界でも有数である[6]

ギリシャは民主主義かつ先進国であり、先進的な高所得経済、高度なクオリティ・オブ・ライフ、高度な生活水準を有する。一方で、数多くの資格や許認可が政治家に委ねられている構造を背景に賄賂や汚職、脱税が横行しており、汚職指数はヨーロッパの国家の中でもイタリアと並んで高いレベルにある[7]ギリシャ危機に象徴される根深い経済問題に悩む。 国際連合原加盟国であり、欧州連合の前身である欧州諸共同体の10番目の加盟国で、2001年以来ユーロ圏の一部である。そのほか多数の国際機関の加盟国でもあり、欧州評議会NATO[8]OECDOSCEWTOがこれに該当する。ギリシャは世界有数の海運国および観光立国であり、バルカン半島最大の経済規模を有し、重要な地域投資国である。
国名「ギリシャの国名(英語版)」も参照

公式名称は ギリシア語: Ελληνικ? Δημοκρατ?α, Elliniki Dimokratia, [elini?ci dimokra?ti.a] ⇒(聞く) エリニキ ディモクラティア, 英語: Hellenic Republic。

ギリシア語: Ελλ?δα [??lada] ( 音声ファイル) エラダは、古代ギリシア語: ?λλ?? ヘッラス に由来する(正式名称中の Ελληνικ? の部分は形容詞形)。ヘッラスはホメーロスではテッサリアの一都市またはプティア地方を指すにすぎなかったが、のちにギリシアそのものを指すようになった[9]

西洋の諸言語はラテン語: Graeciaに由来する形を持つ。Graecia自体はGraeci(ギリシア人)の土地という意味で、これ自体古代ギリシア人の自称のひとつ、Γραικο? グライコイの借用である。これも本来はギリシア全体ではなく一地方名であったらしいが、それがどこであったかはよくわかっていない。ローマ人はこの語をエトルリア人経由で借用した[10]

中東の諸言語での呼称、たとえばアラビア語の ??????? (al-Y?n?n 、アル=ユーナーン)、ヘブライ語の ???? (Yavan 、ヤヴァン)、トルコ語の Yunanistan (ユナニスタン)などは、すべてイオニアに由来する。

日本語による公式名称はギリシャ共和国で通称はギリシャまたはギリシア。国会の制定法や外務省、およびギリシャの在日大使館のサイトではギリシャと表記される一方、人文系の世界ではギリシアと表記されることが多い[注釈 1]。ギリシャあるいはギリシアという名称は、ポルトガル語Greciaに由来し、古くは「ゲレシヤ」といったが、明治以降に「ギリシヤ」に変化した[11]。中国語では希臘[注釈 2](シーラ)と表記するが、これは古代ギリシア語「?λλ??」(ヘッラス)に由来する。日本語での漢字表記も同じく希臘で略称は希となる。
歴史詳細は「ギリシャの歴史」を参照
ギリシア・ローマ時代アルカイック期におけるギリシア領および植民地(紀元前750 - 550年)アテナイのアクロポリスにおけるパルテノン神殿は、古典ギリシアのもっとも有名な象徴のひとつである詳細は「古代ギリシア」、「エーゲ文明」、および「アカエア」を参照

古代のギリシャはアテナイスパルタコリントステーバイなどの多数のポリス(都市国家)が各地域に成立しており、ギリシャ全体としては言語・文化・宗教などを通じた緩やかな集合体で、マケドニア王国に征服されるまでギリシャ統一国家を形成することはなかった。政治的に独立していた各ポリス間では戦争が絶え間なく繰り返された。紀元前5世紀アケメネス朝(ペルシア帝国)が地中海世界に進出してくると、各ポリスは同盟を結び、これに勝利した(ペルシア戦争)。しかしその後、アテナイを盟主とするデロス同盟とスパルタを盟主とするペロポネソス同盟とでギリシア全体に渡るペロポネソス戦争が勃発し、ギリシャ全体が荒廃し勢力を失った。紀元前4世紀半ばにマケドニアピリッポス2世カイロネイアの戦いに勝利すると、ギリシャ諸ポリスはマケドニアを盟主としたヘラス同盟(コリント同盟)に属することとなる。ギリシャ人はアレクサンドロス3世(大王)の東方遠征に従軍し、長年の宿敵ペルシア帝国を滅亡させた。ペルシャの傭兵となったギリシャ人がいたが、彼らは裏切り者として奴隷にされた。

大王死後、マケドニアを支配したアンティゴノス朝と対抗。この時期にピュロスエペイロス王)らが活躍した。やがてアカイア同盟を結成して共和政ローマと手を結ぶ。マケドニアの没落後はローマと対決したが、紀元前146年にローマ軍に敗北、コリントスの破壊とともにローマ属州アカエアとされた。古代ギリシアは民主主義の原点であった。
東ローマ帝国詳細は「東ローマ帝国」を参照

395年ローマ帝国が東西に分裂したあとは、ギリシャ地域は東ローマ帝国に属した。

7世紀以降の東ローマ帝国はギリシア語を公用語とし、皇帝をはじめとする支配階層もギリシア語を母語とする民族が中心となっていったが、彼ら自身は自分をギリシャ人とみなさず、「ローマ人(ロマイオイ/ロメイ中世・現代ギリシア語)」と称した。東ローマ帝国はギリシャ民族の歴史の一部と捉えられている。なお、東ローマ帝国を「ギリシャ化したローマ帝国」と捉える研究者もいる(ギリシャでは自らを「ローマ人」と呼ぶことがあるという[要出典])。ただ、東ローマ帝国の中心地はアナトリアトラキアマケドニアであり、現在のギリシャにあたる部分は、スラブ人の侵入と移住、アラブ勢力の来襲やブルガリア帝国やノルマン王国といった外部勢力の攻撃が相次ぎ、帝都コンスタンティノープルからは辺境地域とみなされていた(ただしテッサロニキはスラヴ人の侵入でも陥落せず、人口数万人を擁して栄えた[12]、帝国第二の都市であった。)。1025年の東ローマ帝国

1204年第4回十字軍によってコンスタンティノープルが占領されて東ローマ帝国は崩壊し、ギリシャにも十字軍が侵入してきた。12世紀末のコムネノス王朝末期以降、東ローマ帝国は内部崩壊を起こして国政が混乱していたため、ヨーロッパ側に住むギリシャ人の多くは混乱を収め、安定をもたらすものとして十字軍を歓迎した[13]。このため、アテネ公国などの多くの十字軍国家が成立した(十字軍に抵抗したのは裕福なコリントスのみ)。ほかには東ローマの亡命政権であるエピロス専制侯国や、ブルガリア帝国セルビア王国、また都市国家ヴェネツィアなどが割拠するようになった。


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