ギリシャ語
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 ブルガリア中央・南部

欧米諸言語への影響

ギリシア語の語彙はヨーロッパの諸言語に広く借用されている。特に英語においては、数学(mathematics)・天文学(astronomy)・民主主義(democracy)・哲学(philosophy)・修辞学(rhetoric)・俳優(thespian)・陸上競技(athletics)・劇場(theater)などのほか、ギリシア語の単語やその要素は新たな造語の元にもなっている。人類学(anthropology)・写真(photography)・異性体(isomer)・生体力学(biomechanics)・映画(cinema)・物理学(physics)などがそれに当たる。また、ラテン語とともに国際的な学術用語の拠り所ともなっている。たとえば -logy(談話)で終わる語はすべてギリシア語由来である。ギリシア単語の多くが英語の派生語を有する一方、ギリシア語に起源を持つと推測される英語の語彙はその内の12%である[2]
歴史
前近代

ギリシア語は、おおよそ紀元前3千年紀後半にはバルカン半島で話されていた。最も古い痕跡は、クレタ島クノッソス宮殿内の「2頭立て馬車の粘土板の部屋」にある線文字Bの粘土板(LM IIIA, 紀元前1400年頃)に見出せる。ギリシア語が現在使用されている言語の中で世界最古に記録されたもののひとつとされる所以である。インド・ヨーロッパ語族の中で、記録を確認できる年代がギリシア語に匹敵する言語は、ヴェーダ語ヒッタイト語死語)のみである。なお母音のいくつかは長短の区別があった。

後年のギリシア文字(線文字Bとの関連はない)はフェニキア文字に由来する。フェニキア文字はアブジャド(単子音文字)であったため多少手が加えられ、これが今日でも使用されている。ギリシア語は慣例的に以下のように区分される。
ギリシア祖語 (Proto-Greek) 
確認されているすべてのギリシア語の、想定上の原型。実際の記録には残されていない。ギリシア祖語の話者は、おそらく紀元前2千年紀前半にギリシアへ移住してきた。以来、ギリシアでは絶え間なくギリシア語が話されてきた。
ミケーネ語
ミケーネ文明の言語。線文字Bで粘土板に書かれており、紀元前15世紀ないし14世紀にまで遡れる。
古代ギリシア語(古代ギリシア語の方言(英語版))
古代ギリシア語に含まれる様々な方言は、古代ギリシア文明のアルカイック期と古典期の言語に分かれる。古代ギリシア語はローマ帝国中に広く知れ渡っていた。
コイネー
様々な古代ギリシア語方言と、古典期のアッティカ方言アテナイの方言)の融合体。初の共通ギリシア語方言であり、東地中海と近東全域の通商語となった。コイネーはまず、マケドニア軍とアレクサンドロス大王の征服地にその足跡を辿ることができる。ヘレニズム時代に各地に植民都市が建設されたのちは、エジプトからインド周辺にまで到る地域で話されるようになった。共和政ローマによるギリシア征服後は、ローマ市内ではラテン語とギリシア語のダイグロシア(二言語併存)が定着し、ローマの領域全体でも第一言語または第二言語の地位を獲得した。しかしながら、中世になると西ヨーロッパでは廃れていった。
キリスト教の起源を明かにできるのもコイネーである。使徒伝道が、ギリシアやギリシア語圏で行われていたからであり、このときに用いられたコイネーは、『新約聖書』原典にも使用されたことから新約聖書ギリシア語と呼ばれるほか、アレクサンドリア方言や後古典ギリシア語としても知られる。
中世ギリシア語
東ローマ帝国で用いられた、コイネーの後継。とはいえ、すでに多くの点で現代ギリシア語に近づいていた日常の話し言葉から、古典期のアッティカ方言に倣った高度に学問的な文語までが含まれており、その意味するところは多岐にわたっている。「中世ギリシア語」とは、15世紀に帝国が終焉を迎えるまでのギリシア語全体を包括する用語と言える。帝国の公用語となった文語の多くは、文語コイネーの伝統に基づいて生まれた折衷的・中立的なものであった。コンスタンティノープルの陥落に伴ってギリシア人がイタリアに移住すると、ギリシア語は再び他のヨーロッパに紹介された。
現代ギリシア語(英語版)
中世ギリシア語から派生しているため、語法の起源は東ローマ帝国時代(早ければ11世紀)に求めることができる。現代ギリシア語は、その名のとおり現代のギリシア人によって話されている言語である。標準語とは別にいくつかの方言が存在し、東ローマ帝国の時代から伝わる民間人の口語(デモティキ)と、公文書や文学・神学書等で用いられてきた古典ギリシア語に近い文語(擬古典語)を元にした「カサレヴサ」の間を揺れ動きながら成立してきた。
現代ギリシア語の成立

まず口語では、ソフィアノスのギリシアの文法書が初出である。しかし18世紀のヴルガリスは、擬古典語を堅持した。ミシオダクスは新しい共通語を基礎にと主張。カタルジスは学者として初めて口語民衆語を支持した。一方、アダマンティス・コライスは、コイネーを規範とし、口語を純化(カサレヴサ化)した古典的ギリシア語に基づく新しい規範的ギリシア語を作ることを最初に訴えた。

1833年ギリシャ王国が成立すると、新国王オソン1世とともに故国に帰った官僚は、コイネーを規範とする古典的カサレヴサを標準とすべきと主張した。一方では、口語に基づいた民衆語をギリシア語にするべきだという文学者ディオニシオス・ソロモスの主張[注釈 2]も存在した。

その後、永くフランスのパリで活躍したプシハリスが、民衆口語が通時言語学的に公用語として適切であり、現代ギリシア語は口語によるべきであることを国際的な学者・作家として初めて言語学的根拠をもって主張した。当時行政言語に主流であったカサレヴサは、通時言語学に反した復古的・人工的なもので、公用語でも文学語においても失当である旨を『わが旅』等で文学作品の中で実践してもいる。

しかしその「口語」は、数ある方言のうち「アテネ方言」のみを指称するもので、当時の方言をまとめるには、かつてのコイネーを基盤とするカサレヴサの方が、ギリシア全体の共通語として(方言をまとめるために)より一般化しやすい言語であった[注釈 3]。方言学者はどちらの陣営にも属さず、地域方言をその地域の「口語」として、教育言語に使用することを折衷案として唱えた。エーゲ海サモス島スミルナで女子校の運営にあたったレオンディアス・サッフォーは、学校教育においても方言を推奨し、言語論争に「方言」の重要性を提起した。「カサレヴサ」の長所と、アテネ方言の「デモティキ」との折衷言語よりも「民衆語である方言」の重要性を強調した。

20世紀後半に入ると、首相のエレフテリオス・ヴェニゼロスは新憲法にカサレヴサを公用語にすることを記載した。ただし初等教育については、トリアンダフィリデスの主宰する教育学会が文法書をデモティキで出版し、民衆口語(アテネ方言)化が公的に行われた。やがて、イオアニス・メタクサスの独裁政権の下ではカサレヴサではなくデモティキが正式な国語と制定され、またその後の政変で再度カサレヴサに戻された。1964年ゲオルギオス・パパンドレウ政府がカサレヴサとデモティキとをともに公用語(併用)とするも、軍政下ではカサレヴサが公用語に再度戻された。1974年7月24日の民主政回復を経て、最終的にコンスタンディノス・カラマンリス政府の下、1976年にデモティキが正式な公用語と定められ今に至る。

しかし、司法用語(たとえば民法)は依然カサレヴサのままで存続している。判例などもカサレヴサで起草・公示されており、大学学位論文、公的公報等でも用いられ続けている。このほか、正教会奉神礼用語もカサレヴサが正式な権威ある言語として依然と使用され続け、デモティキと並存しているのが現状である。
現代語話者と古典

「教養ある」現代語話者は古典を解することができる。その背景には古典と現代語の類似性だけでなく、教育が機能していることが挙げられる。『新約聖書』原典や七十人訳聖書に書かれたギリシア語であるコイネーは、現代の話者でも比較的理解しやすい。イギリスの歴史家ロバート・ブラウニングが言ったように「現代ギリシア語の話者にとって、紀元前7世紀に書かれたホメーロスの叙事詩は決して外国文学ではない。ギリシア語は、その最古の時代より現在に至るまで、連綿と受け継がれ、親しまれているのである」[4]
文法概要
文字と発音詳細は「ギリシア文字」を参照

大文字、小文字、現代の音価、慣用(古典期)の呼び名、現代の呼び名(慣用と同じ場合省略)、現代の綴りの順で記載。

Α α=[a](アルファ)?λφα

Β β=[v](ベータ;ヴィタ)β?τα紀元後数百年に [b] から変異。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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