ギリシャ第二共和政
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注釈^ 希土戦争においてギリシャ軍は小アジアへ侵入していたが、ムスタファ・ケマル率いるトルコ軍はこれを押し戻し、1922年夏、ギリシャ軍はスミルナから撤退。スミルナに残されたキリスト教徒がトルコ軍によって虐殺された事件[1]
^ トルコ共和国は希土戦争をトルコ共和国独立のための戦いと考えており、以前結ばれたセーヴル条約に記載されたオスマン帝国領のギリシャ割譲をムスタファ・ケマル率いる共和政府は認めていなかった[3]
^ これは言語や民族を根拠に選定されたのではなく、宗教を根拠としていた。そのため、トルコ語しか話せないキリスト教徒、ギリシャ語しか話せないイスラム教徒らがそれぞれ移動することとなり、さらにイスタンブール、インヴロス島、テネドス島はトルコ領でありながらそこに住むギリシャ人は交換対象外であり、ギリシャ領のテッサリアに住むイスラム教徒も対象外とされた[3]。さらにこの時期、ロシア革命を受けてカフカースウクライナから脱出してきた難民たちもこれに加わっていた[5]
^ 移住したギリシャ人の多くがトルコ語のみしか解することができず、また解する者がいたとしてもギリシャ国内ではほとんど通用しないポンドス地方の方言や、日本でいう文語のような『カサレヴェサ(純正語)』のどちらかしか話すことができず、意思の疎通が困難であり[6]、彼らがギリシャ社会に適応するには十数年を要したとされている[5]

脚注^ 周藤、村田(2000)、p.35.
^ a b リチャード・クロッグ、(2004)p.111.
^ a b c d リチャード・クロッグ、(2004)p.112.
^ a b 桜井(2005)、p.329.
^ a b c d 桜井(2005)、p.330.
^ a b リチャード・クロッグ、(2004)p.113.
^ リチャード・クロッグ、(2004)p.115.
^ リチャード・クロッグ、(2004)p.115.
^ a b c リチャード・クロッグ、(2004)p.116.
^ a b 桜井(2005)、p.331.
^ パンガロス将軍の新内閣発足『時事新報』大正14年6月28日夕刊(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p136 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ ブルガリアの提議を拒絶、戦闘続ける『時事新報』大正14年10月24日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p136)
^ 桜井(2005)、pp.331-332.
^ コンディリス将軍、革命起こす『東京朝日新聞』大正15年8月23日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p136-p137)

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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