ギリシャ独立戦争
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^ この第一次露土戦争はロシアの勝利に終わり、キュチュク・カイナルジ条約が結ばれた[24]
^ 18世紀末、ギリシャでは「アガタンゲロスの予言」と「賢者レオの予言」という噂が広まっており、ともにロシアがギリシャを解放するという内容であった。「アガタンゲロスの予言」は正教徒司祭テオクリトス・ポリエイデスが編纂した汎正教主義の予言であり、一方で「賢者レオの予言」では1773年にオスマン帝国がコンスタンティノープルを追放されるとされていた[9]
^ 1790年以降、ヴロラベラトチャメリアテッサリアを勢力下としてヤニナ公国として統治していた[33]
^ 1799年にナポレオンによって禁じられた民族舞踊の名称。フランス革命に参加した過激派がこの名称を名乗っており、ギリシャの共和主義者らはこれを真似て自称した[36]
^ このイオニア七島連邦国には後のギリシャ初代大統領イオアニス・カポディストリアスも評議会の行政長官として参加していた。カポディストリアスは憲法制定にも参加して外交、商業、教育の責任者として働き、さらにイオニア諸島のレフカダ島へ侵攻したアリー・パシャとの戦いでは軍事司令官として戦っている[38]
^ カポディストリアスはこのイオニア七島連邦国での経験から自らがギリシャ人である意識を強く持ち、ギリシャ人にこだわらずバルカン半島の諸民族をオスマン帝国支配下から解放することまで考えていたという[22]
^ 柴『バルカン史』によればイスタンブールでの蜂起を含むバルカン半島全体で蜂起を行い、『祖国(ミテーラ・パトリーザ)』の解放を目指していたとされている[53]
^ フィリキ・エテリアはその後もセルビアと接触を持ち、セルビアとの共闘を目指したが、ミロシュはオスマン帝国と折り合いをつける方針を採用していたため、協力することはなかった[54]
^ 当時、カポディストリアスがフィリキ・エテリアの会員であるという噂が一人歩きしていたがこれは事実ではなかったが[56]、その一方でフィロムソス・エテリアという組織を発足させており、このフィロムソス・エテリアと混同されることがあった[57]。ただし、後のフィリキ・エテリア指導者アレクサンドロス・イプシランディスによればカポディストリアスはフィリキ・エテリアに参加したとされているが、カポディストリアス本人はこれを否定している[58]
^ カポディストリアスによればフィリキ・エテリアの計画は愚かしいもので失敗は必然と考えており、そのためギリシャはセルビア公国のような自立的な立場を目指すべきと考えていた[59][57]。そしてギリシャ独立への動きに関する情報を収集し、それらをオデッサ、モルドバ、ワラキアのギリシャ人指導者層やマヴロコルダトスらなどに注意を喚起した[57]
^ 当初、ペロポネソス半島での蜂起や[63]、セルビア、ブルガリア、ワラキア、モルドバ、エーゲ海島嶼部、マニ、メッセニア、トラキア、イピロス、モレアそしてロシアで革命を展開するという方針であったが[61]、イプシランディス参加後、ロシアの支援を受けた上で、ワラキア、モルドバ両公国へ解放者として侵攻して陽動作戦を行い、ペロポネソス半島を中心とするギリシャ本土に反乱を起こさせて共同戦線を張ることによりオスマン帝国に対応できなくさせ、さらにロシア王室から皇帝を選んでギリシャ帝国を建設するというものに変更されたが[64][54]、これは1812年のブカレスト条約でワラキア、モルドバ両公国にオスマン帝国の駐留が認められておらず、さらに両公国にはギリシャ人が多数、住んでいたこと、ペロポネソス半島では準備が整っていなかったことが関係している[65]
^ セルビア人、ブルガリア人らは自らの民族運動を整えつつあり、大部分のセルビア人、ブルガリア人らはギリシャが覇権を握ることに反感を持っていたが[59]、モルドバ、ワラキア両公国の公の息子らがフィリキ・エテリアを信奉していたことから支援が受けられると判断されていた[54]。また、一部のブルガリアの都市、スリヴェンプロヴディフガブロヴォなどではエテリアを支持する勢力が存在していたため、ブルガリアでも蜂起を計画していたが、あまりにも勢力が小さかったため、蜂起には加わらなかった[66]
^ 柴によればイプシランディスはアリー・パシャの打倒を目指していたとしている[71]
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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