東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)はその領域の大半が東地中海のギリシア語圏であり、7世紀のヘラクレイオス帝の時代以降は公用語がギリシア語となった。9世紀に入るとコンスタンティノポリス総主教フォティオス1世らが古典研究を推進し、さらに867年に成立したマケドニア王朝の下で古代ギリシアの古典作品が見直された。また、10世紀の皇帝コンスタンティノス7世は国家事業として古典作品の収集を進めた。「マケドニア朝ルネサンス」も参照
13世紀のパレオロゴス朝(1261年?1453年)にはギリシア語による史書の著述や古典の研究がさらに盛んになり、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスはギリシア語文化の中心となった。「パレオロゴス朝ルネサンス」および「ビザンティン小説」も参照
1453年のオスマン帝国がコンスタンティノポリスを攻略し、東ローマ帝国が滅亡すると、帝国の亡命知識人により西ヨーロッパへ大量のギリシャ古典の写本が流入し、イタリア・ルネサンスにおける古典復興が準備された。 近代ギリシア文学の先駆けとしては、凡そ十一世紀半ばにまとめ上げられたとされる叙事詩『ディゲニス・アクリタス 1453年のイスタンブル(コンスタンディヌーポリ)陥落の前よりビザンツ帝国の凋落は始まっていたが、帝都の陥落を前後して多くの知識人が主にイタリアを中心とした西欧へと逃れた。このような時代背景の故に、後ビザンツ・オスマン統治期においてはギリシア本土で自由闊達な文化活動が見られることはなかった。このような状況下において、ギリシア文学の活動が見られたのはイスタンブル(コンスタンディヌーポリ)及びオスマン帝国による占領が遅れ、加えて西欧との接触の多かったキプロス、ヒオス、クレタ、イオニア諸島等の島嶼部である。 キプロス島は小アジア由来の民衆詩の中心地であったが、ここにヴェネツィア支配によるイタリアの影響が加わり、ペトラルカのソネット等が翻訳され、これに倣う一連のソネット形式の恋愛詩が作られた。代表的な人物に、1360年から1501年までのキプロスを描き、近代ギリシア散文の父とも言われるマヘラス
近代以降
後ビザンツ・オスマン統治期
ロードス島は13世紀よりヴェネツィアやジェノヴァ等外国人の支配下にあり、この影響で恋愛を主題にした民衆歌が作られ、イェオルイラス等のロードス島の疫病を歌った叙事詩が生まれた。しかし1522年のオスマン帝国による占領後文学活動は止んだとされる。ヒオス島は1566年のオスマン帝国の到来以前はヴェニツィアやジェノヴァに占領されており、ロードス島の民衆詩の影響にある民衆詩が歌われた。
クレタ島では近代ギリシア文学の一黄金期と称してもよいほど豊富多様で高度な詩を中心とする諸文学が生み出された。ここでは13世紀から17世紀中葉におよぶヴェネツィア支配の影響とギリシア民衆詩の影響が溶け合っている。15世紀後半から16世紀前半にはビザンツ帝国の陥落を嘆く無名詩人の手になる「コンスタンディヌーポリの愁訴」、クレタの地震を歌ったスクラヴォスの叙事詩、ベルガディスの「アポコポス」に代表される数々の詩が詠まれた。中でも重要なものに、作者不明の「美しき女羊飼」とコルナロスの「エロトクリトス」であり、後のギリシア民衆詩の伝統に大きな影響を残した。他に詩以外にも、西欧の作品の影響を大きく受けた劇作品が多く残されているが、散文作品は傑作を欠く。1699年にクレタ島がオスマン帝国の軍門に下った後はクレタにおける文学的創造は見られなくなるも、イオニア諸島やギリシア各地にクレタの文学的素地が受け継がれていくことになる。
近現代の代表的な作家
ニコス・カザンザキス(Ν?κο? Καζαντζ?κη?, 1883?1957)小説家 代表作「アレクシス・ゾルバス(別名「その男ゾルバ」)」「キリストは再び十字架につけられる」、映画「最後の誘惑」の原作など
イオルゴス・セフェリス(Γι?ργο? Σεφ?ρη?, 1900-1971) 詩人 1963年ノーベル文学賞受賞
オデッセアス・エリティス (Οδυσσ?α? Ελ?τη?, 1911-1996) 詩人 1979年ノーベル文学賞受賞
コンスタンディノス・カヴァフィス (Κωνσταντ?νο? Π. Καβ?φη?, 1863-1933) 詩人