ディモス(δ?μο?
/ dimos、複数形: δ?μοι / dimoi ; 英: municipalities、市)は、ギリシャの基礎自治体である。ディモスは、市長(δ?μαρχο?)と市議会(δημοτικ? συμβο?λιο)によって運営される。「カリクラティス改革」後、ディモスは全国に325ある。通常5年ごとに選挙を行う。 ディモスの下位は、以下のように区分される。
ディモスの下位区分
ディモス(δ?μο?)
ディモティキ・エノティタ(δημοτικ? εν?τητα
ディモティキ・キノティタ(δημοτικ? κοιν?τητα)
トピキ・キノティタ(τοπικ? κοιν?τητα)
ディモティキ・エノティタ(δημοτικ? εν?τητα 複数形: δημοτικ?? εν?τητε?)は「ディモスの構成体(ユニット)」を意味し、カリクラティス改革以前の旧自治体(ディモスとキノティタ)の区画となっている。
ディモティキ・エノティタは、さらにキノティタ(κοιν?τητα、複数形: κοιν?τητε? / koinotites)に区分される。「キノティタ」(κοιν?τητα)あるいはキノティス(Κοιν?τη?)は「共同体(コミュニティ)」を意味する言葉で、都市共同体をあらわすディモティキ・キノティタと、村落共同体をあらわすトピキ・キノティタの二種がある。両者の境界はおおむね人口2000人である。
これらのキノティタは、もともとは伝統的な村落共同体を、近代に入って地方行政区画として利用するようにしたもので[4]、イタリアの「コムーネ」やスペインの「ムニシピオ」に相当する。カポディストリアス改革(1999年1月施行)によって自治体の統廃合が進められ、この単位は自治体としての地位を失った。現行制度のキノティタは「議会」を持つことができるが、キノティタ議会の役割はあくまでも市政府への助言にとどまる。
「カリクラティス改革」までは、複数のトピキ・キノティタを含む、自治体としての「キノティタ」(村)があり、ディモスとともにノモスに属していた。
沿革
独立から20世紀末まで1855年のギリシャとイオニア諸島の地図
近代ギリシャの最初の行政区画は、ギリシャ独立戦争中(ギリシャ第一共和政)の1828年に、初代大統領イオアニス・カポディストリアスのもとで制定された (el:Διοικητικ? δια?ρεση τη? Ελλ?δα? 1828) 。臨時政府が支配していたペロポネソス半島とエーゲ海の島々は13の τμ?ματα によって区分され、τμ?ματα はさらにエパルヒア(郡)によって区分された。
ギリシャ独立が承認されてギリシャ王国が建国されると、1833年に国王オソン1世のもとで地方行政制度が整えられた。全土(当時のギリシャ王国領土はペロポネソス半島、ギリシャ本土、キクラデス諸島のみからなる)は10のノモス(県)、43のエパルヒア(郡)によって区分され、さらに末端の行政区分としてディモス(市)が置かれた (el:Διοικητικ? δια?ρεση τη? Ελλ?δα? 1833) 。ディモスの長は国王による任命となり、それまでのディモス(都市共同体)やキノティス(村落共同体)が持っていた自治権は否定された。
1836年にノモスは廃止され Διο?κηση による区分が導入されるが (el:Διοικητικ? δια?ρεση τη? Ελλ?δα? 1836) 、1844年にクーデタが発生して立憲君主制に移行すると、1845年にノモスとエパルヒアによる区分が復活した (el:Διοικητικ? δια?ρεση τη? Ελλ?δα? 1845) 。ギリシャ王国の拡大
オソン1世の退位後に迎えられたゲオルギオス1世のもと、ギリシャ王国は拡張を続ける。1864年にはイオニア諸島、1881年にはテッサリアがギリシャ領に編入され、1899年の行政区画再編によってノモスの数は26となった (el:Διοικητικ? δια?ρεση τη? Ελλ?δα? 1899) 。1909年の改変を経て (el:Διοικητικ? δια?ρεση τη? Ελλ?δα? 1909) 、1912年に地方制度が改められた (el:Διοικητικ? δια?ρεση τη? Ελλ?δα? 1912) 。ギリシャはその後、クレタ・イピロス・マケドニア(1913年)、西トラキア(1923年)をその版図に組み込んだ。
第二次世界大戦後の1947年、イタリア領であったドデカネス諸島がギリシャの領土となり、現在のギリシャの領域が定まった。
1971年時点で、ギリシャ全土にはキノティタが5805、ディモスが256あり、首都圏とアトス山を除いて52のノモスが置かれていた[5]。