ギリシャ人(ギリシャじん、ギリシア語:?λληνε? [?elines]現代ギリシア語, Hell?nes[hell??nes]古代ギリシア語)は、バルカン半島周辺およびキプロスに出自を持ち、ギリシャ語を母語とする民族である。国民としてのギリシャ人(ギリシャ共和国の国籍を有するもの)にはアルーマニア人、アルバニア人、トルコ系、国外からの移住者も含まれる。 古代ギリシャ時代におけるギリシャ人はギリシャ語を話し、特に自由民であるものをいう。ギリシャ本土だけでなく、小アジアやヨーロッパの各地にギリシャから移住した者の手によって建設された植民市の住民も含む。彼ら自身はヘレネス(ヘレーンの一族)と称し、他者をバルバロイ(意味のわからない言葉を話す者)と呼んで区別した。マケドニア人もギリシャ語を話し、ヘラクレスの血筋であるとされたので一部の反マケドニア勢力を除けばヘレネスとして広く認知されていた。 後に、マケドニア王国のアレクサンドロス大王の帝国建設などを経て、広く中央アジアから地中海世界の各地にまで広がったギリシャ語を常用するものをも指すように転じた。ギリシャ人を意味する英語の Greek 、フランス語の Grec などの西欧の諸言語における呼称や日本語の「ギリシャ(人)」は、イタリア半島の南部に移住した人々を古代ローマ人がその土地の名であるグラエキア (Graecia) からグラエキ (Graeci) と呼んだことに由来する。 中世・近世におけるギリシャ人は、主に東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)やオスマン帝国の統治下で、ギリシャ地域や小アジア、エーゲ海の島々に広く居住しており、ギリシャ語を母語とし、正教会のキリスト教を信奉した人々のことである。 血統的には古代からの連続性があったと通常考えられているが、6世紀後半のスラヴ人の南下によって混血が進められたと考えられていた。古代より人口希薄だったペロポネソス半島のほぼ全域をスラブ人が占領したが、ニケフォロス1世の時代からギリシャ化政策が始まり、200年程かけてギリシャ人になった。オスマン帝国内にはスラヴ人のほかにもアルメニア人、イタリア人、クルド人なども居住していた。これら非ギリシャ人の中で東方正教を信仰する者は全地総主教の管轄下に置かれてギリシャ文化の影響を受け、ギリシャ人になった者も少なくなかった。 東ローマ帝国時代のギリシャ人は、他のキリスト教徒の諸民族からはもっぱら「ギリシャ人」と呼ばれた。しかし、ギリシャ人自身は、ローマ帝国市民としての自意識を持ち、ロマイオイ(ギリシア語: Ρωμα?οι ローマ人 中世・現代ギリシア語ではロメイ)と自称しており、「ヘレネス(エリネス)」は古代の異教徒、あるいは地方都市や農村の住民のことをさしていた。212年のアントニヌス勅令によってローマ市民権はローマ帝国内の全自由人に与えられていたからである[37]。古代ローマ時代のことを「父祖の時代」と呼び、古代ギリシャ人の子孫であることよりも、古代ローマ帝国市民の末裔であることを誇りにしていたのである。例えば、10世紀の東ローマ皇帝コンスタンティノス7世は、その著書『テマの起源について』の中で、ヘラクレイオス朝時代(610-711)に帝国の公用語がラテン語からギリシャ語に改められたことを「父たちの、ローマ人の言葉を捨てた」と表現している[38]。 その一方で、東ローマ帝国の知識人階層においてはホメロスの詩を暗唱できるのが常識とされ、中等教育では古典ギリシャ語の文法が教えられるなど[39]されたように、古代ギリシャの古典文化が尊重されていた。 特に、東ローマ帝国末期のパレオロゴス王朝期には、ギリシャ古典文化が大いに見直されて復興を果たす(パレオロゴス朝ルネサンス)が、この時期のギリシャ古典文化を身につけた東ローマ帝国のギリシャ人の一部は、ヴェネツィア共和国によるペロポネソス半島、キプロス島、クレタ島などの支配や1453年のコンスタンティノープルの陥落の影響で次第にイタリアなど西ヨーロッパに渡ることも多くなり、ルネサンス期の古典復興に大いに貢献したと言われる。
古代
中近世
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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