母アンジェリックが1897年に11歳年下のジュール・ヴェイユと結婚し、1899年、アポリネール19歳のときにモナコを去ってエクス=レ=バン(オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、サヴォワ県)、次いでリヨンに移り住み、最後にパリに居を定めた。アポリネールは相変わらず図書館(特にマザラン図書館)に通い、セーヌ河畔のブキニスト(フランス語版)巡りをして読書に没頭した[1]。 パリでの生活は窮乏を極めた。1900年2月19日から4月24日までH・デスナールの筆名で『ル・マタン
スタヴロ事件(フランス語版)の宿に置き去りにされた。このときに、アポリネールの詩に「マレイ」という名前で登場するカフェの娘マリア・デュボワに出会ったこと、ワロン方言に親しんだこと、そして弟と一緒にアルデンヌ地方を散策したことは実り豊かな体験となり、後に『スタヴロ詩篇』で語られることになる。だが、まもなく持参金が尽きて母に手紙を書き送ったが、母から送られたのはパリへ帰るための現金だけであったため、兄弟は宿代を払わずに夜逃げをし、森を抜けて次の駅からパリ行きの汽車に乗った[1][4]。このときアポリネールが滞在した宿は彼の詩に因んで「愛されない男(恋を失った男)」と名付けられている[8]。
窮乏の生活
この頃、アポリネールはポルトガル系ユダヤ人の友人フェルディナン・モリナの妹ランダ・モリナ・ダ・シルヴァと出会い、毎日のように「ランダへの愛の誓いのことば」、綴り字LINDAを行頭に読みこんだ五行詩などなどの熱烈な愛の詩を書き送った。これらの書簡詩は後に「ランダ詩篇」としてまとめられることになる。とはいえ、ランダはアポリネールの愛に応えることはなく、結婚の申し込みもあっさり拒絶した[4][13]。
相変わらず窮乏を強いられていたアポリネールは、新聞の求人欄で見つけた株式取引所の書記に採用されたが、給料の不払いが続いて失職[12]。生活費を得るために好色本専門の書店からの依頼で性愛小説『ミルリーまたは安価な小さい穴』を偽名で書き上げたが、刊行されなかった。原稿が現存しないため、事情は不明である[14]。取引所の同僚の母親の紹介で、ドイツ系ノルマンディー貴族ミロー子爵夫人の娘ガブリエルのフランス語の家庭教師の職を得、ミロー家に同行してライン河畔のノイ・グリュック、そしてホンネフの別荘に滞在した。このとき、モナコのコレージュの同窓生であったジャン・セーヴの紹介で文芸誌『ラ・グランド・フランス』に寄稿。ヴィルヘルム・コストロヴィツキの筆名で3篇の詩『月のもの』、『婚礼』、『都会と心』を発表した[4][15]。アポリネール(1902年、ケルンにて)
さらに、同じくガブリエルの英語の家庭教師となった英国人女性アンニー・プレイデンに出会い、再び熱烈な手紙を書き送った。翌1902年にミロー家がライン地方の領地に引き上げることになったときにも、アンニーとともに一家に同行し、ケルン、ハノーファー、ベルリン、ドレスデン、ミュンヘンなどドイツ各地を旅し、一人でプラハやウィーンも訪れた。