ギヨーム・アポリネール
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文学ではシャルル・ペローラシーヌラ・フォンテーヌからジャンヌ=マリー・ルプランス・ド・ボーモンバルザック、さらには無政府主義への関心からセバスティアン・フォール(フランス語版)、社会的な関心からエミール・ゾラトルストイなどを読み耽り、特にマラルメから大きな影響を受けた。また、トゥーサン=リュカ宛の手紙には、ジョヴァンニ・ボッカッチョの『デカメロン』の翻訳を試みていると書いている[6]

母アンジェリックが1897年に11歳年下のジュール・ヴェイユと結婚し、1899年、アポリネール19歳のときにモナコを去ってエクス=レ=バンオーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏サヴォワ県)、次いでリヨンに移り住み、最後にパリに居を定めた。アポリネールは相変わらず図書館(特にマザラン図書館)に通い、セーヌ河畔のブキニスト(フランス語版)巡りをして読書に没頭した[1]
スタヴロ事件

1899年の夏に一家はベルギースパに滞在したが、母が賭け事の借金で姿をくらまし、弟アルベールと二人、スタヴロ(フランス語版)の宿に置き去りにされた。このときに、アポリネールの詩に「マレイ」という名前で登場するカフェの娘マリア・デュボワに出会ったこと、ワロン方言に親しんだこと、そして弟と一緒にアルデンヌ地方を散策したことは実り豊かな体験となり、後に『スタヴロ詩篇』で語られることになる。だが、まもなく持参金が尽きて母に手紙を書き送ったが、母から送られたのはパリへ帰るための現金だけであったため、兄弟は宿代を払わずに夜逃げをし、森を抜けて次の駅からパリ行きの汽車に乗った[1][4]。このときアポリネールが滞在した宿は彼の詩に因んで「愛されない男(恋を失った男)」と名付けられている[8]
窮乏の生活

パリでの生活は窮乏を極めた。1900年2月19日から4月24日までH・デスナールの筆名で『ル・マタン(フランス語版)』紙に小説『何をすべきか』を連載。これは弁護士アンリ・エスナールのゴーストライターとして、小説家ウジェーヌ・ガイエ[9] と共同で執筆したものであり、19世紀末に起こった殺人事件を織り込んだ推理小説風または空想科学小説風の作品である。通俗的新聞小説だが、その型破りな作風にはすでに後の『異端教祖株式会社』の萌芽が伺われる[10][11]。だが、原稿料が支払われなかったため、次に、ガイエが主宰するモンマルトル風刺週刊新聞『タバラン』(魔術師、奇術師、縁日芝居の俳優タバラン(フランス語版)(1584-1626)に因む紙名)に寄稿した。しかし、ガイエもまた広告掲載料でかろうじて印刷・製本代をまかなっていたため、原稿料はほとんど支払われなかった[12]

この頃、アポリネールはポルトガル系ユダヤ人の友人フェルディナン・モリナの妹ランダ・モリナ・ダ・シルヴァと出会い、毎日のように「ランダへの愛の誓いのことば」、綴り字LINDAを行頭に読みこんだ五行詩などなどの熱烈な愛の詩を書き送った。これらの書簡詩は後に「ランダ詩篇」としてまとめられることになる。とはいえ、ランダはアポリネールの愛に応えることはなく、結婚の申し込みもあっさり拒絶した[4][13]

相変わらず窮乏を強いられていたアポリネールは、新聞の求人欄で見つけた株式取引所の書記に採用されたが、給料の不払いが続いて失職[12]。生活費を得るために好色本専門の書店からの依頼で性愛小説『ミルリーまたは安価な小さい穴』を偽名で書き上げたが、刊行されなかった。原稿が現存しないため、事情は不明である[14]。取引所の同僚の母親の紹介で、ドイツ系ノルマンディー貴族ミロー子爵夫人の娘ガブリエルのフランス語の家庭教師の職を得、ミロー家に同行してライン河畔のノイ・グリュック、そしてホンネフの別荘に滞在した。このとき、モナコのコレージュの同窓生であったジャン・セーヴの紹介で文芸誌『ラ・グランド・フランス』に寄稿。ヴィルヘルム・コストロヴィツキの筆名で3篇の詩『月のもの』、『婚礼』、『都会と心』を発表した[4][15]アポリネール(1902年、ケルンにて)

さらに、同じくガブリエルの英語の家庭教師となった英国人女性アンニー・プレイデンに出会い、再び熱烈な手紙を書き送った。翌1902年にミロー家がライン地方の領地に引き上げることになったときにも、アンニーとともに一家に同行し、ケルンハノーファーベルリンドレスデンミュンヘンなどドイツ各地を旅し、一人でプラハウィーンも訪れた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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