1836年の夏の休暇の際に一家でトルーヴィルの海水浴場へ旅行し、ここでパリで音楽出版を手がけているシュレザンジェ夫妻と出会う。14歳のフローベールは11歳年上の夫人に激しい恋心を抱き、旅行から帰った後にこの出会いを主題にして『狂人の手記』を執筆した。夫妻との付き合いはその後も続き、後に『感情教育』でもこの題材を取り上げることになる。1837年、年上の友人で先に卒業していたポワットヴァンの主宰する地元新聞『ハチドリ』に、バルザックの『結婚の生理学』から着想を得た風刺的な作品を掲載。これが初めて公にされた文章となる。
1838年より高等学校に入学、ユゴー、モンテーニュ、サド、ラブレー、ゲーテ、バイロンらに心酔しつつ『芸術と商業』『マテュラン医師の葬式』『ラシェル嬢』などの物語、また後の『聖アントワーヌの誘惑』を思わせる中世風の史劇『スマール』に力を注ぐ。哲学科に入ったフローベールは当初教授にかわいがられたが、しかしその後強権的な教授に代わるとクラスを挙げて反発、抗議文書を書いて署名を集めるなど嘆願活動を行なった。これにより退学を恐れた父の判断で1839年12月に学校を辞め、フローベールは翌年のバカロレアに独学で臨まなければならなくなった。 バカロレアに合格したフローベールは、父の友人に伴われて南フランスとコルシカ島を旅行した。このときコルシカ島からマルセイユに戻り、フローベールはここで取った宿を経営していた35歳のクレオールの女性を相手に童貞を失った。1841年、パリ大学に入学。父の勧めで法学を学ぶが、自分の性質と合わない学問に非常に苦しんだ。当初は自宅で学習していたが、1842年8月よりパリで住まいを借りここで生活をはじめ、勉強の傍らで、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』やシャトーブリアンの『ルネ』などから着想を得つつマルセイユでの思い出を題材にした作品『十一月』を書き始める。パリでは彫刻家ジェームズ・プラディエ
隠棲の始まり
1844年1月、ルーアンに帰郷したフローベールは、一別荘の建設予定地を見に兄とともにドーヴィルへ旅行し、中途で眩暈を起こして意識を失い昏倒した。フローベールはしばらく療養したものの、授業登録のため再びパリに赴くと直後に発作が再発、事態を重く見た父の判断で法学の勉強は諦め、家族の目の届くところで静かに暮らすことを余儀なくされた。父は息子の隠棲場所を作ってやるためルーアン近郊のクロワッセに館を作ってやり、フローベールはここでかえって様々な心配ごとを免れながら、熱望していた執筆生活に専念することができるようになった。
フローベールは平穏な生活を送りながら『感情教育』(初稿)を書き上げるが、父の財産管理のおかげで経済的な不安がなかったこともあり出版は考えなかった。次第に健康状態もよくなり、1845年に妹カロリーヌが結婚すると、両親とともに新婚旅行に同行した。このときジェノヴァのバルビ宮殿でブリューゲルの『聖アントニウスの誘惑』を見、『聖アントワーヌの誘惑』の着想を得て準備を始めた。しかし父がにわかに病気にかかり1846年1月に急死、その1か月後には産褥熱がもとで妹カロリーヌが死去するという不幸に見舞われる。一家の大黒柱を失ったフローベールはカロリーヌの娘(名は同じカロリーヌ)を引き取り、父の遺産からの年金に頼りながら母、姪と3人で、あるときはルーアン、あるときはクロワッセと住処を移すという生活を始めた。
1846年7月、フローベールはカロリーヌの胸像をプラディエに依頼するためパリに出向き、彼のアトリエでルイーズ・コレと出会う。すでに様々な作家と浮名を流していた11歳年上の女性詩人にフローベールは魅了され、以後数年にわたり恋愛関係に陥ることになる。 1847年4月、激しやすいルイーズとの関係に疲れていたフローベールは、マクシム・デュ・カンとともに旅行を計画。途中神経の発作に見舞われながらブルターニュ方面を3か月かけて旅行、帰郷後はデュ・カンと共同で旅行記を執筆した。
『ボヴァリー夫人』まで