ギュスターヴ・エミール・ボアソナード
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お雇い外国人の中で拷問廃止を訴えたのはボアソナードだけだったと言われている(正式に拷問が廃止されたのは1879年)。

1878年、司法省民法編纂会議の下で編纂されていた民法草案は完成を見たが(いわゆる「明治11年民法」)、フランス法の直訳であり修正すべき点が多いとの理由で廃棄されることとなった。

刑事法の編纂が決着したことから、明治12年(1879年)からボアソナードが民法典の起草に着手した。

不平等条約撤廃の交渉過程で列強各国が民法をはじめとする近代法典の不在を治外法権の正当化理由としていたことから、江戸幕府に引き続き明治政府も早くから既に民法典の編纂に着手していたのであるが、日本に民法典が存在しなかったこともあってその起草は容易ではなく、箕作麟祥らがナポレオン法典を翻訳し民法の草案が幾度も作成されたが司法卿大木喬任は直輸入的な草案を拒絶し、日本の実態に即した民法典の起草をボアソナードに命じたのである(なお、家族法の部分については伝統や習慣の影響が極めて大きいため日本人の手によって起草)。

なお、民法典の起草にあたって重要な参考資料とするために、大木は全国の慣例や習俗を2度に渡って調査し、『全国民事慣例類集』を編纂している(これは全国各地の習慣を各土地の長老や有力者から聞き取り調査したものをまとめたもので、幕末から明治期における日本の風俗や習慣を知る上で貴重な史料である)。

ところが、1886年(明治19年)に旧制東京大学帝国大学と改称しイギリス法学を導入し始めると元老院民法編纂局は閉鎖されることとなり、大木が内閣を介してボアソナード草案元老院へ提出するも、審理は外務卿井上馨の要請により保留され、新たに設置された外務省法律取調委員会が草案を審理することとなった。

起草を始めてから10年の歳月を経た明治23年(1890年)、全1762条からなる民法(明治23年法律第28号及び第98号の旧民法)が公布されたが、民法典論争の結果、旧民法は施行が延期され、結局施行されることなく、民法が公布・施行され、これにより旧民法は廃止された。この結果にボアソナードはひどく落胆し、「日本人民ハ余ヲ見棄テタルモノナリ」と語ったという[6]

もっとも、ボアソナード自身が起草した草案は施行されることこそなかったが、民法典の出来る前には、一時事実上の法源として法曹・法学者に研究・利用された。当時の国家試験の主要科目でさえあったという[7]。また、物権や債権、財産権などの原理原則は現行民法に受け継がれ、全条文のうち少なくとも半分くらいはフランス法の影響があると主張する論者もいる(星野英一など)[8]。そのため、現在においてもフランスに留学する民法学者が少なくない。
日本法学への貢献ボアソナードの胸像
(パリ大学法学部)ボアソナードの胸像
(法政大学構内)

法学教育にも力を注ぎ、明治法律学校(現明治大学)の創設者岸本辰雄らに多大な影響を与え、弟子の宮城浩蔵は東洋のオルトランと呼ばれた[9]。ちなみにオルトランはボアソナードの師である。司法省法学校で教鞭をとり、1881年5月に法政大学の前身である東京法学校の講師、1883年9月には東京法学校の教頭として着任。10年以上に渡り近代法学士養成と判事・免許代言士(現在の弁護士)養成に尽力し、法大の基礎を築いたため、法政大学の祖とされている[10]。なお熊野敏三磯部四郎(旧民法家族法起草者)ら司法省法学校一期生に対する商法・家族法の講義は日本滞在歴の長いジョルジュ・ブスケが担当しており[11]梅謙次郎(明治民法起草者)ら二期生もボアソナードではなくジョルジュ・アペールの担当である[12]

また、明治法律学校では刑法、治罪法、自然法、相続法の講義を行い(通訳は杉村虎一)、東京大学法学部では旧民法の草案について講義するなど、日本の法学教育に大きく貢献した。

ボアソナードの講義について、加太邦憲は「以って自ずから秩序無く、時には横道に入り、遂には本道への戻り道を失することありて、到底初学の者には了解し難く」と述懐しており[13]ボアソナード流の講義に慣れるまで苦労したともいわれている。また、ボアソナードは講義をするにあたって法律書など一切携行してくることはなく、前日の講義の末尾を学生に尋ねその続きを講義するといった形で講義をしていたと加太は記している。
外交への貢献

ボアソナードは、当時国際法にも通ずる数少ない人物であったため、台湾出兵後の北京での交渉に補佐として、日本側代表大久保利通に同行。条約締結の成功に貢献した。これにより瑞宝章を授与。現在も法務省旧本館の資料室で一般公開されている。
日中朝三国同盟の献策

1882年(明治15年)夏に李氏朝鮮壬午事変が起こった際、ボアソナードは外交顧問として軍乱勃発直後より何回も諮問を受けており、同年8月9日付の「朝鮮事件に付井上議官ボアソナード氏問答筆記」[14]では、日本にとって最も恐るべき隣国はロシアであると説き、日本、中国朝鮮が提携するアジア主義をすすめた[15]
著述

講義録や草案は国立国会図書館に多数残る[16]。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースにボアソナードに関する文献の原文があります。

『経済学者ラ・フォンテーヌ』野田良之解説、久野桂一郎訳、みすず書房、1979年[17]

『仏国民法売買篇講義』堀田正忠訳、薩?正邦編、博聞社、1883年。[18]

再閲民法草案』、1880年-1890年(旧民法の財産編(物権・人権)と財産取得編の草案)

『民法商法の実施延期に関する意見』、1892年。[19]

参考文献

大久保泰甫『ボワソナアド-日本近代法の父』(岩波書店岩波新書 黄版〉、1977年)ISBN 978-4004200338

関連文献

大久保泰甫、高橋良彰『ボワソナード民法典の編纂』(雄松堂、1999年)
ISBN 4841902554

『大学教育のイノベーター 法政大学創立者・薩?正邦と明治日本の産業社会』
法政大学イノベーション・マネジメント研究センター・洞口治夫編(書籍工房早山、2008年)ISBN 978-4886115102

大久保泰甫『ボワソナードと国際法-台湾出兵事件の透視図』(岩波書店、2016年)ISBN 978-4000247948

池田眞朗『ボワソナードとその民法』(慶應義塾大学出版会、2011年、増補版2021年)


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