70年代前半、UPD社には財政上の困難が降りかかり始めた。ジュディ・リン・デル・レイがバランタイン・ブックスに転職するとヤコブソンの仕事量は増大した。過労に耐えかねた彼は1年と持たずに退職し、1974年6月号からはジェイムズ・ビーンが編集長となった。彼は『イフ』の編集も兼任したが、紙の値段の高騰により両誌の存続は苦しくなり、『イフ』は『ギャラクシー』に統合された[12]。1973年9月からは再び月刊となったが、完全な月刊ではなかった。ビーンは就任時には4万7789であった発行部数を退任時には8万1035まで回復させた。『ギャラクシー』はUPD社にとって赤字の元ではなくなったが、親会社への財政的圧力は大きく、ビーンは77年10月号を最後に『ギャラクシー』を去った[13]。その後任はジョン・J・ピアースであったが、彼の下で『ギャラクシー』はただ発行部数を落とすのみであった。負債は増大し、ピアースは一年と経たないうちに辞任した。彼の部下は「ピアースは自分の仕事を愛していたし、自分が何を喋っているのかよく理解していた」が、彼の下では編集部は非効率にしか動かなかったと回想している。1978年末にハンク・スタインが編集長に着任。彼が発行したのは1979年6・7月号と9月号の2巻のみである。その直後にUPD社は破産し、『ギャラクシー』の経営権はヴィンセント・マキャフリーが新設したギャラクシー・マガジン株式会社に移った。スタインは更に2巻を編集したが、未刊に終わった。別の雑誌『ガリレオ』の発行者でもあったマキャフリーは、資金難のために計画通りに『ギャラクシー』を発行することができなかったのである。マキャフリー体制は、ただ1巻の(そして最後の)『ギャラクシー』を出して終わった。最終号(1980年7月号)は大判で、Floyd Kemskeによって編集された。その後、1980年10月号が編集はされたが刊行はされなかった[14]。
1994年、H・L・ゴールドの息子E・J・ゴールドの編集により、『ギャラクシー』はセミプロ誌としてごく短期間だけ復活した。94年1・2月号から95年3・4月号まで、隔月で8巻が発行された。[15][16] ゴールドは『ギャラクシー』誌に載る小説を、スリック雑誌の読者を引き付けられるくらい文学的にしようと意図していた。彼の編集方針は先行するSF雑誌『アスタウンディング』のジョン・W・キャンベルよりも懐の広いものであった。ゴールドは社会学、心理学といった「ソフト」な科学にも門戸を開き、またユーモアや風刺を旨とする作品も出版しようと心がけた。『ギャラクシー』誌は直ちに成功を修め、初回(1953年度)のヒューゴー賞ベスト・マガジン部門を受賞した[17]。 SF史家のマイク・アシュリー 1950年代にはチェスリー・ボーンステル
内容と受容
イラストとコラム
ジェリー・パーネルは科学コラムを担当した。1970年代後半では批評家兼エロティカ作家のリチャード・E・ギース(Richard E. Geis)がファン的書評コラム"The Alien Viewpoint"を連載した(『イフ』誌からの移入)。