ギャラクシー・サイエンス・フィクション
[Wikipedia|▼Menu]
レスター・デル・レイは編集部員として居残ったが、その後ジュディ・リン・ベンジャミン(デル・レイ夫人)に地位を譲った[10]。ジャック・ゴーハンは美術部門の編集者に任じられた[11]。UPD社による買収が行なわれた時、既に『ギャラクシー』の発行部数は落ち込んでいた。買収後には更なる落ち込みに見舞われ、たった1年間のうちに部数は7万5300から5万1479となった。UPD社の経営陣は経費を抑えて利率を上げることを決定した。『ギャラクシー』は1970年8月から隔月となった。ページ数は、UPDによる買収時に196ページから160ページに減ったが、隔月化に対応して再び増加し、値段も60セントから75セントになった。1972年5月からはイギリス版の発行が始まった(UPDの子会社であるタンデム・ブックスから発行された)。これらの策により、利益は著しく増加した。

70年代前半、UPD社には財政上の困難が降りかかり始めた。ジュディ・リン・デル・レイがバランタイン・ブックスに転職するとヤコブソンの仕事量は増大した。過労に耐えかねた彼は1年と持たずに退職し、1974年6月号からはジェイムズ・ビーンが編集長となった。彼は『イフ』の編集も兼任したが、紙の値段の高騰により両誌の存続は苦しくなり、『イフ』は『ギャラクシー』に統合された[12]。1973年9月からは再び月刊となったが、完全な月刊ではなかった。ビーンは就任時には4万7789であった発行部数を退任時には8万1035まで回復させた。『ギャラクシー』はUPD社にとって赤字の元ではなくなったが、親会社への財政的圧力は大きく、ビーンは77年10月号を最後に『ギャラクシー』を去った[13]。その後任はジョン・J・ピアースであったが、彼の下で『ギャラクシー』はただ発行部数を落とすのみであった。負債は増大し、ピアースは一年と経たないうちに辞任した。彼の部下は「ピアースは自分の仕事を愛していたし、自分が何を喋っているのかよく理解していた」が、彼の下では編集部は非効率にしか動かなかったと回想している。1978年末にハンク・スタインが編集長に着任。彼が発行したのは1979年6・7月号と9月号の2巻のみである。その直後にUPD社は破産し、『ギャラクシー』の経営権はヴィンセント・マキャフリーが新設したギャラクシー・マガジン株式会社に移った。スタインは更に2巻を編集したが、未刊に終わった。別の雑誌『ガリレオ』の発行者でもあったマキャフリーは、資金難のために計画通りに『ギャラクシー』を発行することができなかったのである。マキャフリー体制は、ただ1巻の(そして最後の)『ギャラクシー』を出して終わった。最終号(1980年7月号)は大判で、Floyd Kemskeによって編集された。その後、1980年10月号が編集はされたが刊行はされなかった[14]

1994年、H・L・ゴールドの息子E・J・ゴールドの編集により、『ギャラクシー』はセミプロ誌としてごく短期間だけ復活した。94年1・2月号から95年3・4月号まで、隔月で8巻が発行された。[15][16]
内容と受容

ゴールドは『ギャラクシー』誌に載る小説を、スリック雑誌の読者を引き付けられるくらい文学的にしようと意図していた。彼の編集方針は先行するSF雑誌『アスタウンディング』のジョン・W・キャンベルよりも懐の広いものであった。ゴールドは社会学心理学といった「ソフト」な科学にも門戸を開き、またユーモアや風刺を旨とする作品も出版しようと心がけた。『ギャラクシー』誌は直ちに成功を修め、初回(1953年度)のヒューゴー賞ベスト・マガジン部門を受賞した[17]

SF史家のマイク・アシュリーは『ギャラクシー』の成功を、SF雑誌創刊ブームの主たる原因と見ている。『ギャラクシー』は2年目で10万部以上の発行部数を誇り、『アスタウンディング』以上の成功を修めた。50年代の『ギャラクシー』の表紙は、逆L字型の枠で表紙絵を囲うという特徴的な形式を取っており(本項右上の画像を参照)、これは『スタートリング・ストーリーズ』やイギリスの『オーセンティック・サイエンス・フィクション』などの数誌に模倣された[18]。その内容もまた影響力が強かった。ライバー『ビッグ・タイム』、デイヴィッドスン「あるいは牡蠣でいっぱいの海」のようなヒューゴー賞受賞作はもちろん、コーンブルース"The Marching Morons"、ブラッドベリ"The Fireman"(『華氏451度』の原型)、アシモフ鋼鉄都市』などの作品は古典と見なされている。ゴールドは広範な題材の作品を出版したが、『ギャラクシー』は50年代にはアイロニーと風刺でも有名だった。ゴールド好みのひねくれた作品を書ける作家たち(ロバート・シェクリイデーモン・ナイトら)は『ギャラクシー』の顔となり、定期的に作品を寄稿した[17]
イラストとコラム

1950年代にはチェスリー・ボーンステル(Chesley Bonestell)、ポール・カレ(Paul Calle)、エド・エムシュウィラーヴァージル・フィンレイ、ディック・フランシス(Dick Francis)、ジャック・ゴーハン(Jack Gaughan)、ドン・シブリー(Don Sibley)、デイヴィッド・ストーン(David Stone)、ウォーリー・ウッド(Wally Wood)といった著名イラストレーターたちがイラストを担当した。ヴォーン・ボウデイ(Vaughn Bode)も短期間だが1970年代初期に"Sunpot"という漫画を寄稿している。

ジェリー・パーネルは科学コラムを担当した。1970年代後半では批評家兼エロティカ作家のリチャード・E・ギース(Richard E. Geis)がファン的書評コラム"The Alien Viewpoint"を連載した(『イフ』誌からの移入)。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:40 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef