ギニアビサウ
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1956年にはアミルカル・カブラルがクレオールギニア・カーボベルデ独立アフリカ党 (PAIGC) を設立し、以降PAIGCによる独立・民族解放運動が始まった[8]。当初カブラルは穏健な独立運動を構想していたが、1959年8月3日にビサウでストライキを起こした港湾労働者がポルトガル軍によって多数殺害されたピジギチ虐殺(英語版)以降は方針を変え、農村を根拠地にした武装ゲリラ闘争による独立を目指した[9]
ギニアビサウ独立戦争

1963年にはPAIGCがティテ(英語版)のポルトガル軍基地を襲撃し、ギニアビサウ独立戦争が勃発した。ソビエト連邦キューバギニアなどの支援を受けたPAIGCと、アメリカ合衆国の支援を受けたポルトガルのエスタード・ノーヴォ政権の間で植民地戦争が続いた。

1973年1月20日にPAIGCの指導者であるアミルカル・カブラルはギニアの首都・コナクリにてポルトガル秘密警察PIDE(英語版)によって暗殺されたが、アミルカルの弟のルイス・カブラルが主導権を握って独立闘争は激化し、同年10月24日に領土の3/4以上を解放したPAIGCは東部の町マディナ・ド・ボエにおいてギニアビサウ国(1977年よりギニアビサウ共和国)の独立を宣言した[10]。独立は東側諸国非同盟国家を中心に承認された。

初代大統領には暗殺されたアミルカルの弟のルイス・カブラルが就任した[11]。一方、ポルトガル本土でもギニアビサウでPAIGCと対峙したアントニオ・デ・スピノラ(英語版)将軍やオテロ・デ・カルヴァーリョ(英語版)大尉をはじめとする軍人が中心となって設立されたポルトガル軍内の国軍運動(英語版)(MFA)により、1974年4月25日リスボンカーネーション革命が勃発し、エスタード・ノーヴォ体制は崩壊して左派政権が誕生した。以降、新たに成立したポルトガルの革命政権と各植民地の独立勢力との間で独立交渉が開始され、ポルトガル領ギニアでは既存のPAIGCの支配をポルトガルが承認する形で交渉が進み、同年9月10日にポルトガル政府により正式に独立が承認された[6]
独立後

独立後、当初PAIGCはカーボベルデとの統一国家建設を目指していたが、初代大統領のルイス・カブラルがカーボベルデ系であったことに象徴されるようにギニアビサウではカーボベルデ系が高い地位に就いていたため、ギニアビサウ国内にてカーボベルデ系への反感が高まり、1980年にジョアン・ヴィエイラ首相がルイス・カブラル大統領を軍事クーデターで失脚させたため、以降両国で統一が達成されることはなくなった[12]

ヴィエイラのクーデター後、革命評議会が全権を掌握しヴィエイラは革命評議会議長(国家元首に相当)に就任した。1984年には憲法改正によって革命評議会に代わり国家評議会が設置され、同じくヴィエイラが議長に就任した[6]。建国当初の親東側路線はヴィエイラ政権により親米路線に変更されたが、国内の治安は悪く、軍に対する統制も不十分なものに留まり、クーデター計画が頻発した。

1990年代において、ギニアビサウは複数政党民主主義へと移行していった。政党の結成が1991年に解禁され[13]1994年に大統領選挙が行われた。7月3日に実施された第1回の投票で、ヴィエイラは他の7人の候補を下して46.20%を得票したが、過半数に満たなかったため8月7日に第2回投票が実施された。ヴィエイラは52.02%を得票して、47.98%を得票した対立候補である元哲学の講師で社会革新党(Partido para a Renovacao Social)の代表であるクンバ・ヤラ候補を下した。国際選挙監視団は、両方の投票とも公正なものと評価し、ヴィエイラは1994年9月29日にギニアビサウで初めての民主的選挙によって選ばれた大統領となった。
ギニアビサウ内戦内戦により破壊された戦車

1998年のクーデター未遂事件の後、ギニアビサウはヴィエイラ派の軍と反政府のリーダーであるアンスマネ・マネ(英語版)派の軍との間で激しいギニアビサウ内戦(英語版)が勃発した。内戦によって避難民30万人がビサウに流入するなど社会、経済は混乱し、1999年5月7日に反政府軍がヴィエイラ政権を退陣させた[14]。ヴィエイラはポルトガル大使館へ避難し、7月にポルトガルへと亡命した。

ヴィエイラの亡命後、1999年11月28日の大統領選挙によって2000年には社会革新党(PRS)のクンバ・ヤラが大統領に就任した。しかし、実態はアンスマネ・マネが実権を握る軍事政権であった。まもなくヤラ大統領とマネは対立し、2001年11月30日にマネが暗殺される形でこの対立は決着したが、経済の低迷や政情不安は続き、2003年9月14日ヴェリッシモ・コレイア・セアブラ将軍の無血クーデターでヤラ大統領が辞任・逮捕された。後任としてエンリケ・ロザが臨時大統領に就任し、2004年にはセアブラ将軍が死亡したものの、議会選挙によりPAIGCが勝利。カルロス・ゴメス・ジュニオル首相による連立政権が樹立された。

2005年の大統領選挙では亡命先のポルトガルから帰国した無所属のヴィエイラが勝利し、大統領に就任した。ヴィエイラの就任後、カルロス・ゴメス・ジュニオル首相が更迭され、アリスティデス・ゴメスが首相となった。2008年11月の議会選挙では多数派与党が勝利したが、選挙から一週間後には軍の不満分子による大統領官邸襲撃事件が発生した。この事件では反乱軍は撃退され、クーデターは未遂に終わったが、この事件によって大統領警護隊が組織された。

2009年1月に、ナワイ参謀長が大統領警護隊の解散を命じた矢先に、ナワイ参謀長の暗殺未遂事件が起きた。3月1日には首都ビサウの軍司令部が爆撃を受け、大統領と対立していたナワイ参謀長が爆殺される(2人続けての参謀長暗殺)。翌3月2日、反乱軍兵士が大統領自宅を襲撃し、ヴィエイラ大統領を暗殺した[15]。政府軍は、国営ラジオで反乱軍が「孤立した勢力」であり、鎮圧寸前であると発表し、また軍が憲法を守ることも保障した。ゴメス首相とルイス・サンカ国家安全保障顧問は、大統領が死亡したことを確認したが、詳細は発表しなかった。首都には軍部隊が配置され、民間ラジオ局を閉鎖した。大きな混乱はなかったとされたが、一方でBBCが軍本部の建物が爆発で一部破壊されたと報じた。大統領代行には議会のライムンド・ペレイラ議長が就任している。2009年の大統領選では、マラム・バカイ・サニャ元国民議会議長が大統領に選出された[16]

2010年4月1日にはゴメス首相が一時兵士らに拘束される事態となったが、首相は数時間後に解放された[17]。2012年にはサニャ大統領が在職中に死去し、後任大統領の選挙中の2012年4月12日、クーデター(en:2012 Guinea-Bissau coup d'etat)が起きてライムンド・ペレイラ暫定大統領とカルロス・ゴメス・ジュニオル候補が拘束された[18]。5月にはマヌエル・セリフォ・ナマジョが暫定大統領に就任し、2014年には延期されていた大統領選挙が実施されてジョゼ・マリオ・ヴァスが大統領に選出された[19]。2019年12月には大統領選挙が行われ、決選投票で野党・マデムG15候補のウマロ・シソコ・エムバロが与党・PAIGC候補のドミンゴス・シモンエス・ペレイラを破って当選したが[20]、与党側はこれを不服とし最高裁に提訴を行った。しかし2020年2月27日にエムバロは就任式を行い、大統領に就任した[21]
政治詳細は「ギニアビサウの政治(ポルトガル語版、英語版)」を参照.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}}首都ビサウにある大統領官邸(英語版)
2013年に中国の投資により資金提供を受ける形で改装され、再び運営されている国家人民会議議事堂


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