キング・コング_(1933年の映画)
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ジャングル映画では科学知識は常に覆され、それがジャンルの活力や魅力、耐久性に繋がっていた[8]

20世紀初頭に霊長類を飼育している動物園は少なかったため、「映画で霊長類を見たい」という人々が多数存在した。この要望に応える形で、リュミエール兄弟は西洋人が足を踏み入れたことのない場所に映画ドキュメンタリー班を派遣し、ジョルジュ・メリエストリック撮影を駆使して後年の『キング・コング』のような幻想的な映画を製作した。こうした中で1913年に『Beasts in the Jungle』がアメリカで公開され、同作のヒットにより『ターザン(英語版)』などの類似するジャングル映画が多数製作された[8]。その中でも1925年に製作された『ロスト・ワールド』は、後に『キング・コング』を手掛けるウィリス・オブライエンのチームによる特殊効果によって映画史に残る作品となった[9]。また、『キング・コング』の共同監督アーネスト・B・シュードサックは『チャング(英語版)』で猿を題材にした経験があり、『ランゴ(英語版)』ではジャングルを舞台に猿を題材にした物語を描いている。1930年にはコンゴ・ピクチャーズが「生きた女性がマンモス・ゴリラの犠牲になった姿を描く、議論の余地のない本物のセルロイド・ドキュメント」と称するモキュメンタリー映画『インガギ(英語版)』を製作した。同作は「黒人女性がゴリラと性行為した結果、極めて猿に近い子供を産む」という描写から、現代では人種差別的なエクスプロイテーション映画として認識されているが[8]、公開当時は400万ドルの興行収入を記録し、1930年代に最も大きな興行成績を収めたヒット作品の一つだった。『キング・コング』の共同監督メリアン・C・クーパーは『インガギ』を『キング・コング』製作に影響を与えた作品には挙げていないものの、RKOが『キング・コング』の製作を承認した背景には『インガギ』に代表されるような「ゴリラ+セクシーな女性=莫大な利益」という図式が存在したといわれている[10]
コンセプトメリアン・C・クーパー

クーパーがゴリラに魅せられたのは、少年時代にポール・デュ・シャイユの『赤道アフリカの探検と冒険』を読んだことに始まり、『四枚の羽根(英語版)』の撮影のためにアフリカのヒヒを研究したことがきっかけだった。彼はウィリアム・ダグラス・バーデン(英語版)の『The Dragon Lizards of Komodo』を読み、「アフリカのゴリラとコモドオオトカゲが戦う」というシナリオを執筆した。シナリオではメインキャラクターをコモドオオトカゲと戦うゴリラ一頭に絞り、「ロマンス要素を軽視している」という批判に応えるために女性を探検隊メンバーに加えた。舞台は離島に設定され、ゴリラはニューヨークで劇的な最期を迎えることになっていた[11]

クーパーはパラマウント・ピクチャーズに脚本を売り込んだが、同社は世界恐慌の時期にアフリカやコモド島へのロケーション撮影が必要となる企画は「予算が膨大になる」という理由で難色を示した。その後、彼はデヴィッド・O・セルズニックの招きでRKOのエグゼクティブ・アシスタントに就任し、同時に「好きな映画を作って良い」と確約された。クーパーはすぐに『猟奇島』の製作に取り掛かり、シュードサックを監督に起用した。主演にはロバート・アームストロングフェイ・レイを起用し、巨大なジャングルの撮影セットを作成した。同作の製作が軌道に乗ったころ、クーパーはオブライエンを招いて恐竜の住む島に漂着した人間の冒険を描く『Creation』の製作に取り掛かった[12]。彼はオブライエンのストップモーション・アニメーションには感銘を受けなかったが、コモドオオトカゲの代わりにオブライエンの恐竜アニメーションとスタジオにあるジャングルの撮影セットを利用することで、自分が理想とするゴリラを題材にした映画を低コストで製作できることに気が付いた。コングがエンパイア・ステート・ビルディングで最期を迎えるという構想は、このころに思い付いたといわれている。RKO幹部はクーパーの企画に慎重な姿勢を見せたが、彼はフェイ・レイ、ロバート・アームストロング、ブルース・キャボットの起用と、オブライエンの恐竜の模型を持参したプレゼンテーションを行い、RKOから製作の承認を取り付けた。これを受けたクーパーは『Creation』の製作を中止し、同作のスタッフを『キング・コング』の製作に動員した[13]
脚本『キング・コング』のポスター

脚本家にはイギリスのベストセラー作家で、PKOに採用されたばかりのエドガー・ウォーレスが起用された。クーパーはウォーレス作品の商業的な魅力を理解しており、映画を「エドガー・ウォーレスの小説を原作にした映画」として宣伝することを計画した。ウォーレスは1932年1月1日から脚本の執筆を始め、同月5日に初稿『The Beast』を完成させた。クーパーは初稿に多くの追加作業が必要と考えていたが、ウォーレスは脚本修正を始めた直後の2月10日に死去している[8][14]。ウォーレスの初稿は『キング・コング』には最終的に一切採用されなかったが、クーパーは契約時の約束を守り、『キング・コング』にウォーレスの名前をクレジットしている。

クーパーはウォーレスに代わり、『猟奇島』で脚本を手掛けるジェームズ・アシュモア・クリールマン(英語版)を起用し、共同で『The Eighth Wonder』と題した複数の草稿を書き上げた。ウォーレスの初稿には「脱走した囚人を船で運ぶ」というシーンがあり、彼が描いた「猛獣ハンターのダンビー・デナム」は「映画監督カール・デナム(英語版)」に、ヒロインの「シャーリー」は「アン・ダロウ」に、「シャーリーの恋人である囚人ジョン」は「一等航海士ジャック・ドリスコル」にそれぞれ変更された。デナムのキャラクターは、当時アフリカで危険動物を捕獲しヨーロッパで公開して時の人となっていたドイツの動物商カール・ハーゲンベックがモデルとなっている[15]。また、このころに「美女と野獣」というコンセプトが脚本に盛り込まれた。コングが逃亡する場所はマディソン・スクエア・ガーデンを予定していたが、ヤンキー・スタジアムを経て、最終的にブロードウェイ劇場に変更された。ウォーレスの初稿にはコングの愛嬌を強調するシーンが存在したが、クーパーは「コングが硬派でタフな存在であれば、彼が死んだ時により素晴らしく悲劇的なシーンになる」と信じてウォーレスの描いたシーンを削除した[14]

その後、時間的な制約からクリールマンは『The Eighth Wonder』から離れて『猟奇島』の脚本執筆に専念することになった。彼の離脱後、RKOのスタッフライターのホレス・マッコイがクーパーに呼ばれ、「島の先住民」「巨大な壁」「生贄の美女」などの要素を脚本に盛り込んだ。レオン・ゴードンも執筆に参加していたが、2人とも名前はクレジットされていない[16]。クリールマンは作業に復帰した際に「脚本に大げさなコンセプトが多く含まれている」という理由で、マッコイが盛り込んだ「神話的な要素」に拒否感を示したが、クーパーの判断で脚本に残すことになった。一方、セルズニックやRKO幹部は観客を飽きさせないためにコングを映画の早い段階で登場させるように求めたが、クーパーは「サスペンスフルな展開によって、コングの登場に観客を興奮させることができる」と主張して登場を遅らせるように説得した[17]

クリールマンの最終稿を確認したクーパーは、彼の脚本はテンポが遅くて着飾った台詞や長い説明シーンが多く[17]、製作費が膨大な金額になるような内容になっていると感じた。このため、シュードサックの妻ルース・ローズ(英語版)が修正作業のため呼ばれ、彼女は脚本執筆の経験がないにもかかわらず、クーパーの要望を理解して不要なシーンを削除して脚本のスリム化に成功した。削除したシーンには、コングを髑髏島からニューヨークまで運ぶシーン(修正後は輸送シーンの説明がなく、すぐに髑髏島からニューヨークに場面転換する)がある。彼女は脚本修正の際、カール・デナムにクーパー、ジャック・ドリスコルに夫シュードサック、アン・ダロウに自分自身の人格を反映させている[18]。また、台詞の変更も行い、新たにカール・デナムとアン・ダロウがニューヨークで初めて出会うシーンを作り出した。クーパーはローズの修正稿を高く評価し、『Kong』のタイトルを付けて製作を承認した[19]。監督はクーパーとシュードサックが共同で務めることになったが、2人の製作スタイルが正反対(クーパーは時間をかけて丁寧に行い、シュードサックはスピーディーに行うスタイルだった)だったことから、最終的に2人は別々に作業を行うことに決め、クーパーはオブライエンのストップモーション・アニメーションと特撮作業の監督、シュードサックは俳優の会話シーンを監督した[20]


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