キング・クリムゾン
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構成メンバーを基準に、“第1期”、“第2期”……などと分類する点は共通しているが、「デビューからファースト・アルバムのリリース当時」のメンバーを“第1期”、サード・アルバム『リザード』のころを“第2期”、4thアルバム『アイランズ』のメンバーを『第3期』……とする分類や、『リザード』までを“第1期”、『アイランズ』のころを“第2期”、『太陽と戦慄』から1974年解散までを“第3期”……とする分類などといったように、「アルバム自体や、その時のメンバー単位で分類する方法」と、「デビューから1974年の解散時まで」を“第1期”、「1980年代再結成からの活動期間」を“第2期”、「1994年からの活動期間」を“第3期”……と、「連続活動期間で分類する方法」などがあり、統一がなされていない。音楽評論家の市川哲史は、『太陽と戦慄』の時期を「再結成」、1980年代の『ディシプリン』から『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』の時期を「再々結成」、1990年代のダブル・トリオの時期を「再々々結成」として、キング・クリムゾンのCDのライナノーツでもその様に記述している。ここでは、前者の分類方式に準じて述べていくが、「デビュー当初の“第1期”」後については、極力、構成メンバーやアルバム・タイトルなどで記述することとする。
来歴


1960年代 クリムゾン・キングの宮殿(1968年-1969年)

1968年、ジャイルズ兄弟(マイケル・ジャイルズピーター・ジャイルズ)とロバート・フリップの3人によるバンド「ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ」から発展。同年6月にマルチプレイヤーイアン・マクドナルド、作詞・ライブ時の照明担当のピート・シンフィールド、女性ボーカルのジュディ・ダイブル(元フェアポート・コンヴェンション)が加わる。しかし翌7月にダイブルが抜け、同12月にフリップの古くからの友人であったボーカリストベーシストグレッグ・レイクが参加。同11月末にピーター・ジャイルズが脱退し、フリップ、Mジャイルズ、マクドナルド、レイクとなり陣容が正式に固まった。

1969年初頭、バンド名は加入前にマクドナルドとシンフィールドが共作した曲「クリムゾン・キングの宮殿」から採られ、「キング・クリムゾン」に決定。シンフィールドは、メンバーの反対を押し切って付けたとインタビューに答えている。本格化した活動が始まり、公開リハーサルの後、ライブ活動とアルバム制作を並行した。当初、バンドローディだったピート・シンフィールドは、作詞やライヴのライティングでの貢献から演奏に不参加ながらも正規メンバーとなった。

同年10月、デビュー・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』を発表。それは今後のロック・ミュージックを左右する雛形が詰まったと言える作品で、業界からも非常に高い評価を得る[8]全英アルバムチャート5位まで上昇したが、当時から雑誌のレコード・レビューなどで「1969年に、ビートルズの『アビイ・ロード』を1位から転落させたアルバム」といった内容で日本盤LP帯に紹介されてしまった。[注釈 1]

このファースト・アルバム制作当初、「ムーディー・ブルース」のプロデューサー トニー・クラークがプロデュースを担当する繋がりで、同バンドのレーベル「スレッショルド」からリリースする話もあったが、結局はクラークと制作面の相違で決裂。最終的にバンド側がセルフプロデュースして「アイランド・レコード」からのリリースとなった。また、現在はフリップがバンドリーダーを務めているが、この当時の作曲やアレンジを含めた音楽面では、マクドナルドが優勢であったとされる。特に、キーボード(メロトロン)、サックス、フルートを導入し、新たな音楽を創造した功績は大きいとされている。

1stアルバム発表後、イアン・マクドナルドとマイケル・ジャイルズは同年末で脱退し、ロック・デュオ「マクドナルド・アンド・ジャイルズ」結成に向かう。これによりオリジナル・ラインナップは早くも崩壊し、アルバム僅か一枚の短命で終わる。


1970年代 アイランズ期(1970年-1972年)

バンドは崩壊後も契約消化のため、アルバム・リリースを継続せねばならなかった。1970年からの新アルバム制作にサックス及びフルート奏者 メル・コリンズが正規加入、脱退していたジャイルズ兄弟らの協力やゲストプレイヤーを招いて、セカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』を完成させた。ただし、グレッグ・レイクが4月以降からレコーディングに来なくなり、そのまま脱退。「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」結成に動き出していた。そのためライブツアーは実施されていない。その後、ボーカリスト兼ベーシスト ゴードン・ハスケルとドラマー アンディ・マカロックを正規メンバーに迎えた上に、ゲストプレイヤーの協力も仰いで、サード・アルバム『リザード』を制作して同年末リリース。ライブツアーを実施しようとしたが、リハーサル段階でハスケルとマカロックが脱退したので頓挫した。

1971年初頭、残った正規メンバー フリップ、コリンズ、シンフィールドは、ライブ活動ができる状態を模索する。まずボーカリスト ボズ・バレルとドラマー イアン・ウォーレスを獲得。そしてベーシストは適任者探しが難航した末、バレルが兼任するという形に決まり、フリップがベースギターの素人であったバレルに奏法を教授した。新作アルバムの制作に入る前に、4月からドイツや英国ツアーで1年以上ぶりのライブ活動を行う。

同年夏、新作アルバムの制作に着手し、並行して英国ツアーを継続。11月からは北米ツアーに入る。この間メンバー同士の確執が浮き彫りになる。特にフリップとシンフィールドの、ブレーン両名の険悪化は致命的であった。そんな中の同年末、4thアルバム『アイランズ』を発表。そしてシンフィールドは解雇された。さらに翌1972年早々のリハーサル段階でもフリップと残りのメンバーとの間の意見統一ができず、結局フリップはバンドの解散を決意。マネジメント側は既に北米ツアーの向こう2ヶ月のスケジュールを組んでいたため、4人は渋々同意して渡米し、ツアーが終了した同4月頭に解散した。

ツアー終了後フリップのみ英国へ帰国し、残りの3人は遠征先で意気投合したアレクシス・コーナーとバンド「スネイプ」を結成。その後バレルは、ポール・ロジャースのバンド「バッド・カンパニー」のベーシストとして参加。シンフィールドはグレッグ・レイクの呼びかけに応じて「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」に作詞で協力し、ソロ・アルバム『スティル』を制作した。後年にフリップは、この時期のバンド解消を「彼らとではアイデア(後の『太陽と戦慄』路線)を具体化できなかったから」と説明している。

同年6月、初のライブ・アルバム『アースバウンド』を廉価版にてリリース。これは北米ツアーの音源でカセットテープによって収録された劣悪な音質でありながら、対立が深まるメンバー同士の爆発寸前の驚異的な演奏であり、後々まで批評を受けた[注釈 2]


1970年代中半 インプロビゼーション期(1972年-1974年)

解散が決定した1972年初頭からの北米ツアーの期間中フリップは、既に次期クリムゾン再開に向けての青写真を描いていた。同年夏、ドラマーのビル・ブルーフォードを「イエス」から獲得。「ファミリー」のベーシスト兼ボーカリストでフリップの大学時代の友人ジョン・ウェットンデレク・ベイリーが主宰しクリムゾンが影響を受けた即興集団「カンパニー」のパーカッショニスト ジェイミー・ミューア、そして新鋭のキーボード兼ヴァイオリニスト デヴィッド・クロスが集結し夏からリハーサルを重ね、同年10月から再始動。即興演奏(インプロビゼーション)を主体に、新たな楽曲を生み出す技巧派集団に生まれ変わった。1973年ライブ・ツアー

ここで再びバンドとしてのピークを迎え、5th『太陽と戦慄』6th『暗黒の世界』7th『レッド』の3枚のアルバムをメンバー変遷を経ながらもリリースし、ライブ・ツアーも精力的にこなした。


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