1969年に発表した「孤独の影」[4]が、第12回グラミー賞において、最優秀リズム・アンド・ブルース・インストゥルメンタル・パフォーマンス賞を受賞した。
1971年3月、ビル・グレアムの企画によって、ライブ・アルバム製作も兼ね、サンフランシスコのフィルモア・ウェストで開催されたアレサ・フランクリンのコンサートに自身のバンド、キングピンズで参加。前座とフランクリンのバック・バンドの両方を務め、この公演の模様は同年のうちに、フランクリン名義の『アレサ・ライヴ・アット・フィルモア・ウェスト』、カーティス名義の『ライヴ・アット・フィルモア・ウェスト』といったアルバムとして発表された[5]。また、1971年7月にはジョン・レノンのアルバム『イマジン』のためのセッションに招かれ、「イッツ・ソー・ハード」と「兵隊にはなりたくない」の2曲でサックス・ソロをオーバー・ダビングした[6]。
しかし、1971年8月、新品の窓用エアコンを担いでの帰宅時、ニューヨークの自宅アパートメント前にて麻薬中毒者と口論になり、ナイフで刺され、そのまま搬送先の病院で死亡した。 サックス奏者としては、唯一無比の音色を持ち、その力強く深みのある演奏はトム・スコット、デイヴィッド・サンボーンといったサックス奏者を初め、ジョン・レノンやギタリストのデレク・トラックスなど人種の壁を超え、多くのミュージシャンに愛されている。 また、毎回、手がけた楽曲がヒットチャートの上位にランクインさせるほど優れた作曲家であった一方で、アレンジャーとしても卓越した才能を誇り、ライブやレコーディングにおいては、オリジナル曲に加え、レッド・ツェッペリンの「胸いっぱいの愛を」やプロコル・ハルムの「青い影」など、白人層のロックミュージックから、スティーヴィー・ワンダーやバティ・マイルス
音楽性
内容についても、エレキギターを全面的に出し、激しいギターソロやリフを組み込むロック寄りの要素に、ドラムとエレキベースの複雑なシンコペーションとポリリズムで楽曲にテンポをつけるなど、当時隆盛であったファンクの要素を取り入れ、これまでのR&Bにはない力強く斬新なアレンジを行った。
こうした彼の音楽性は、アトランティックの音楽性に大きく寄与しただけでなく、1960年代後半から1970年代までのニューソウルの流れやその後に発展したフュージョンにも大きな影響を与えた。
また、人材の育成にも優れた手腕を発揮し、彼自身のバンド、キングピンズからは、ジェリー・ジェモット、バーナード・パーディ、コーネル・デュプリー、チャック・レイニー、ジミ・ヘンドリックスなど、1960?70年代に活躍した優れたミュージシャンを輩出。また、当時、無名であったダニー・ハサウェイを発掘し、プロデビューの機会を作ったことでも知られる。
脚注・出典[脚注の使い方]^ “King Curtis”. Rock & Roll Hall of Fame. 2018年8月26日閲覧。
^ a b c d “King Curtis Chart History - Hot 100”. Billboard. 2018年8月26日閲覧。
^ a b c d “King Curtis Chart History - Hot R&B/Hip Hop Songs”. Billboard. 2018年8月26日閲覧。
^ ⇒45cat - King Curtis And The Kingpins - Games People Play / Foot Pattin', Part II - Atco - USA - 45-6664
^ “ ⇒Legendary Live Fillmore West Albums Recorded in 1971 by Aretha Franklin”. Goldmine Magazine. F+W (2010年4月21日). 2018年8月26日閲覧。
^ “Imagine (album) - Page 2”. The Beatles Bible. 2018年8月26日閲覧。
外部リンク
ワーナーミュージック・ジャパン - キング・カーティス
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