一般にはキンギョは人に慣れない生物と思われがちであるが、愛情を込めてこまめに飼育をすると手乗りのインコ同様に慣れ、人影を認めるとエサをねだるようになる。原種に近い和金以外では可能であり、「どんぶり金魚」はこれを応用した例である。
エサは、藻などの植物性、虫やイトミミズなどの動物性いずれも食べる。栄養素をバランスよく配合した市販のエサが便利で、水質悪化を緩和するためのバクテリア等が配合されている商品もある。1日1回から2回、5分以内に食べきれる量をあたえるとよい[15]。また、新しい環境に慣れるまでの3日くらいはエサを与えない方がよいとされている[15]。
病気「金魚の病気の一覧」を参照
寄生虫によるもの、感染症によるものなど様々な原因で病気にかかる。主な病気に尾ぐされ病、松かさ病、穴あき病、白点病、水カビ病、転覆病、カラムナリス病、風船病、イカリムシ症、チョウ症、運動性エロモナス敗血症、キンギョヘルペスウイルスなどがある。 キンギョは、オスとメスを一緒に飼っていても、産卵のための工夫を何もしない場合、稚魚が見つかることはメダカなどと比べるとまれである。産卵しても、放っておくと親を含めた成魚が産み付けた卵を食べつくしてしまうことが圧倒的に多いためである。 キンギョの増やし方は比較的容易であるが、成魚からの捕食を防ぐため、水槽は別途用意する必要がある。 日本では春先(3月末頃から6月ぐらいまで)が、キンギョの繁殖の主たるシーズンである[15]。繁殖期のキンギョのオスは、エラ蓋と胸ひれに「追い星」という白い斑点が浮き出し、メスを追いかけて産卵を促すようになるので、水槽にはシュロなど、魚のための産卵床(さんらんしょう)となりそうな物を入れる。亀の子たわしでも代用できる。大量に産卵させたい場合は、シュロの皮を針金に巻き、直径8センチメートル、長さ30センチメートル程度のブラシ状にすると良い。シュロの皮が入手しにくい場合は、ヤシの実の内皮(たわしの材料)やホテイアオイの根、アナカリスやカボンバなどの水草などでも卵を産み付けられる[15]。 産卵期が春先や秋口のことが多いため、オスは3歳前後、メスは4歳前後を水温19度前後の水槽に入れる。人為的に産卵時期を変えることもできるが、奇形の発生率が上がったり、孵化率が下がったりする。産み出された卵は直径1mm前後である。なお、卵の生存については色で判別可能であり、生存している卵は無色透明だが、死亡した卵は乳白色である。 産み付けられた卵を見つけたら、水草ごと別の水槽に入れて孵化を待つ[15]。稚魚用の水槽にもろ過装置やエアレーションが必要であり、酸欠による卵の死を防ぐためにエアレーションを微量だけ行い、水槽の水が対流するようにするとよい[15]。大量のエアレーションを行うと、気泡による物理的ダメージで稚魚の奇形の発生率を高めてしまう可能性があり、ろ過装置に稚魚が吸い込まれないよう注意も必要である[15]。稚魚は孵化後3日くらいはじっとして動かず、お腹のヨークサック(卵のう)の栄養で育つ[15]。稚魚が泳ぎ出したら稚魚用のエサが必要となる[15]。稚魚用のエサとして市販されている商品もあるが、成魚用のエサを乳鉢で細かく砕いてあたえてもよい。 金魚は長江下流域の浙江省近辺が発祥の地とされている。中国では南北朝時代には既に飼育されていたが、当時はまだ一般的ではなかった。養殖が盛んに行われるようになったのは宋代に入ってからであり、開宝年間(968年-975年)に現在の上海に近い浙江省嘉興の地でキンギョ放生がなされたと伝わる[16]。明代に入ると品種も増えている。中国の金魚は長らく皇帝・皇族や貴族、士大夫、郷紳らによって飼育・愛玩されてきた奢侈品であった。このため景徳鎮の陶磁器などとともに、中華人民共和国成立後の文化大革命(文革)においては「旧文化」として非難・攻撃・破壊の対象となり、生産・流通・飼育とも壊滅状態に陥った。生産者や関係者、更にその家族まで帝国主義者として吊るし上げられ、浙江省の養魚場も破壊された。金魚も大量に殺され、中でも貴重な系統の親魚が多く失われたことから金魚生産は回復不能なほどの大打撃を受け、その歴史は断絶。生産手段や技術もほとんど失われたため、金魚生産で生計を立てていた人々が多かった地域では文革終結後も経済的に非常に苦しい状態が続いた。1978年(昭和53年)8月に日中平和友好条約が調印され民間の日中交流が拡大すると、日本の金魚生産者が浙江省などに出向いて親魚の提供や技術移転を行って復興に協力し、間もなく日本のような大量生産も始まった。庶民に流通するようになったのは改革開放政策実施後のことである。現在は中国伝統の特産物の一つとされるのみならず、日本や欧米への輸出品として、生産者は政府の支援を受けるに至っている。現在、中国のキンギョは大都市の花鳥魚虫市場で販売されている[16]。 中国語において「金魚」の発音(ピン音で j?nyu )は「金余」と同じ縁起が良いものとされ、現在でも広く愛玩される背景の一つとなっている。お金が余るほど儲かるようにという願いをこめて店の軒先に金魚、またはその置物を置くところもわずかではあるが存在する。 日本では鎌倉時代にはその存在が知られていたが、金魚そのものは室町時代に中国の明から伝来した。後述の『金魚養玩草(きんぎょそだてぐさ)』によれば、文亀2年(1502年)に和泉国堺(現在の大阪府堺市)に渡来したとある[16]。ただ当時はまだ飼育方法や養殖技術等が伝わっておらず、定着には至らなかった。 江戸時代に大々的に養殖が始まったが、その初期においてはまだまだ奢侈品であった。江戸前期、大坂の豪商である淀屋辰五郎は、天井にとりつけた舶来物のガラス製の大きな水槽の中に金魚を泳がせ、下から眺めることにより暑気払いをしたと伝えられている。江戸中期にはメダカとともに庶民の愛玩物として広まり、金魚売り 金魚愛好が広まったのは、延享5年(1748年)に出版された金魚飼育書である安達喜之『金魚養玩草』の影響が大きいといわれている[16]。
養殖方法
中華人民共和国の池で養殖されるキンギョ
産卵床として利用されることがあるシュロ皮(シュロの樹皮)
ホテイアオイの根
産卵
稚魚飼育
歴史
中国
日本
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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