キリバス
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通称、Kiribati。キリバス語での発音は「キリバシ」または「キリバス」のように聞こえる。

日本語の表記はキリバス共和国。通称キリバス。

国名は1788年クルーゼンシュテルンらが島を発見したイギリスの水夫、トマス・ギルバートにちなんで名付けた。キリバス語はg音やl音を欠くため、英語読みの「Gilbert」が転じてキリバスとなった。
歴史
19世紀以前

先住民は、約2000年前西方からカヌーに乗ってやってきたミクロネシア系の人々であった。最初に来航したヨーロッパ人スペイン人航海家で、1537年にクリスマス島(現キリティマティ島)を望見した。1777年にはイギリス人ジェイムズ・クックが来島し、19世紀初めからヨーロッパ人による経済活動が始まった。
イギリス植民地

1892年から、ギルバート諸島は隣のエリス諸島と共にギルバート・エリス諸島としてイギリスの保護領となった。1916年には植民地となった。第二次世界大戦中の1941年に、イギリスの植民地政府を放逐した大日本帝国に占領され、後に一部の島は要塞化された。1943年より、アメリカ軍との間に、ギルバート・マーシャル諸島の戦いといった激しい戦闘が行なわれた。

1956年から1962年に、ライン諸島のクリスマス島がイギリスとアメリカ両国の核実験場とされた。1971年に自治領となった。

1975年11月、ギルバート・エリス諸島は、ポリネシア系のエリス諸島とギルバート諸島に分離。1977年1月からはギルバート諸島は自治領に移行した。ギルバート諸島のバナバ島は独立してフィジーと連合することを模索したが、リン鉱石の利権料を失うことを恐れたギルバート諸島自治領に反対された[3]

1978年にエリス諸島はツバルとしてイギリスから独立した。
独立

1979年にキリバスが独立した。独立の際、アメリカはほとんど無人のフェニックス諸島および3つの島を除くライン諸島すべての所有権を放棄し、それぞれキリバスの領土となった。

独立当初は領域内を日付変更線が通過し、キリバスの時間体系は島によって日付が異なるという行政上において不便な設定になっていた。このため、1995年1月1日に日付変更線の位置を領域の東端にずらして不便を解消した。また、これによって「世界一早く新しい一日を迎える」国家になった。
21世紀

2023年世界銀行はキリバスを含む太平洋島諸国6カ国について、過剰債務のリスクが高いとの認識を示した。2019年以降、新型コロナウイルス対策で政府支出を拡大したことなどが背景にあり、「公的債務水準の対国内総生産比は総じてなお高くないが、経済地理学と不安定な収入源を踏まえると、過剰債務のリスクが依然として高い」としている[4]
政治キリバスの議会議事堂

Maneaba ni Maungatabu と呼ばれるキリバスの議会は、4年に一度の選挙で選ばれ、46人(うち直接選出が44人)の議員で構成される[5]。大統領は、元首であると同時に行政府の長でもあり、Beretitentiと呼ばれる。

21の有人の島にはそれぞれ地方議会があり、日々の問題を処理している。

現在、議会に議席を有する主要政党は、与党トブワーン・キリバス党 (TKP) と野党ボウトカーン・キリバス・モア党 (BKM) である。
海面上昇問題

海抜の低い環礁が多いために、キリバスは近年の地球温暖化による海面上昇で、国土の半数以上は水没の危機にある。アノテ・トン大統領は、2007年8月に日本の読売新聞のインタビューで、もはやキリバスの水没は免れないと明言、全国民の他国への移住計画を発表した。大統領は、熟練労働者としての移住のため、キリバスでの職業訓練支援を日本、アメリカ合衆国オーストラリアなどに呼びかけている。

2014年2月11日フィジー共和国のエペリ・ナイラティカウ(英語版)大統領が、キリバスの国土が水没した場合にキリバスの全国民をフィジーに移住させる用意があることを公式に表明した。
外交

外交面では、1980年から中華人民共和国と国交があった。その後、2003年中華民国台湾)と外交関係を開いたが2019年に中華人民共和国と復交[6]。2020年1月には、タネスィ・マアマウ大統領が訪中。二国間関係を深めた[7]

2022年、キリバスは中国が主催する中国・太平洋島嶼国外相会議に出席する一方、オーストラリアなどが参加する太平洋諸島フォーラムからの脱退を表明[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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