キリスト教
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キリスト教には、その歴史的経緯から様々な教派教団、組織、信条が存在している[17][18]。キリスト教は普遍的な宗教(世界宗教)であり[注釈 7]、特定の民族や人種あるいは限定された身分や社会階層のためのものではなく、すべての人に向けられたものである[17][注釈 8]。実際、キリスト教は、異なる文化・多くの民族の様々な人々に広く受け入れられて、政治構造や社会状況および科学知識や哲学思想、世界観の歴史的な変化や移り変わりがあった各地域で何世紀にもわたって教会・教団や組織を維持してきた[17]。ただし、カトリック教会の場合[注釈 9]、あるいはプロテスタント宗教改革がドイツやスイスを舞台としていたように、組織はヨーロッパ中心主義であり続けた。また、『聖書』は主に地中海世界から中東を舞台にしたものである。

日本でも多く使用される西暦が、救世主とされるナザレのイエスの生まれたとされた年を元年(紀元)としているように[注釈 10]、キリスト教は中世[注釈 11]ー近代から推移してきた現代文明の根幹の形成に関与している。

中世における国教化されたキリスト教は宗教の自由を認めなかったため、異教(主にイスラム教)との戦いによって支配域を拡大し、土着の宗教に代えてキリスト教を説いた[注釈 12]。異教・異端であるかどうかの判別の基準としては、三位一体の教義が確立していること、イエスの復活信仰が確立していること、ナザレのイエスの死を通しての贖罪信仰が確立していること、主イエスが旧約のキリストであるとの信仰が確立していること等が規定されている[注釈 13]。そうしたキリスト信仰に加え、聖書全体を神よりの霊感を受けて書かれた神の言葉として絶対的に受け止めることもある[注釈 14]

また、異教との対話時にもキリスト者本人に、聖霊による神の言葉が具体的に顕現することが言われている福音書もある[21][注釈 15]福音書が作られた当時、聖霊は世の終わりに神から与えられると信じられていた救いの霊とされている。[22]聖霊現象と深いかかわりのあるイエス派運動成立の上で、黙示思想はその重要な背景として存在した[注釈 16]

キリスト教は、「旧約聖書」[注釈 17]を聖典としていることから、ヤハウェによる天地創造から始まり、原罪とその救済が教義の中心にある。「旧約聖書」という呼び方はキリスト教において「新約聖書」と対応して名づけたもので、ユダヤ教の聖典[注釈 18]の名称を旧(ふる)い約束の意味に変えて用いているものである[24]
歴史詳細は「キリスト教の歴史」および「日本のキリスト教史」を参照「キリスト教年表」も参照
古代詳細は「原始キリスト教」および「初期キリスト教」を参照

キリスト教はユダヤ教の預言と律法を引き継ぐ[4]。イエスの死後、弟子たちはイエスの教えを当時のローマ世界へと広めていった[25]

紀元前6年ないし紀元前4年ごろナザレのイエスベツレヘムに生まれる。

ナザレのイエスが刑死する3年ほど前、ナザレのイエスはガリラヤで宣教を開始する。山上の垂訓の中核に位置するものとして、主の祈りがある[26]

紀元後30年ごろ[27]ナザレのイエスが刑死した。
詳細は「ナザレのイエス」を参照
イエスの復活信仰の確立

50年ころパウロテサロニケ人への第一の手紙を記し[28]、生ける真のによって、死んだはずのナザレのイエスが死者たちの中から起こされたことを表明した[29]。テサロニケの信者はイエスは死んでから蘇ったという復活信仰を始めた。

54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し[30]、神によって、死者たちの中から三日目にナザレのイエスが復活したことを表明した[31][注釈 19]。コリントの信者はイエスは死んでから蘇ったという復活信仰を始めた。

70年ころ無名の著者はマルコによる福音書を記し[33]、ナザレのイエスの死後女性信者たちに何らかの事象が起きたことを表明する[34]。空になった墓を見たという記述以降は、後代の加筆であるとされている[35]。南シリアの信者はこれより、イエスの生涯を福音的視座をもって眺めることとなる[注釈 20]

80年代、無名の著者はマタイ福音書を記し[37]、死人の中からナザレのイエスが起こされたことを表明した[38]。西シリアの信者は、死人の中からナザレのイエスが起こされたという信仰を始めた。

80年代、無名の著者はルカ福音書を記す[39]。イエスの復活信仰が確立した。

ナザレのイエスの死を通しての贖罪信仰の確立

50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、来たらんとしている
神の怒りからイエスが救い出してくれることを表明した[40]。テサロニケの信者は神の怒りからイエスが救い出してくれるという信仰を始めた。

54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、イエスは神の御子であり、イエスは私たちの罪のために死んだということを表明した[41]。コリントの信者はイエスは神の御子であり、イエスは私たちの罪のために死んだという贖罪信仰を始めた。また、パウロはコリント人への第一の手紙を記し、アダムにおいてすべての者が死ぬように、そのようにキリストにおいてもまた、すべての者が生きるようにさせられるということを表明した。コリントの信者はイエスによってアダムの罪による自分たちの死が神の御子により蘇りに転換したという信仰を始めた[42]

80年代、無名の著者はマタイ福音書を記し[37]、イエスはヨセフの子ではなく、聖霊によって身ごもった神の御子であることを表明した[43]。そしてかれの民をもろもろの罪から救うことを表明した[44]。西シリアの信者は イエスはヨセフの子ではなく、聖霊によって身ごもった神の御子であるという信仰を始めた。そしてかれの民をもろもろの罪から救うという信仰を始めた。また、マタイ福音書の記者は、山上の垂訓の中に主の祈りを記した[26]。これにより西シリアの信者は 信仰の行としての毎日の祈りの中で怒りの神とは異なる父なる神の信仰を始めることとなる。信者は個人として主なるイエス・キリストとの関係を深めることとなり、イエスの死を通しての贖罪信仰を深めることとなる。

80年代、無名の著者はルカ福音書を記す[注釈 21]。イエスの死を通しての贖罪信仰が確立した。

主イエス・キリスト信仰の確立


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