キリスト教
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90年代、無名の著者は使徒行伝を記し[50]、ステファノが死の直前に聖霊に満たされてイエスが神の右に立っているのを見たことを表明する[51]。信者は神の右にイエスが立っているという信仰を始めた。ユダヤ教に伝承されてきたキリストが主イエスであるという信仰が確立した。
終末信仰の確立
50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、自らの終末観を表明した[注釈 23]。この終末観は初期キリスト教の預言者の言葉である可能性大であるとされている[52]。テサロニケの信者は下記の予測についての終末信仰を始めた。
パウロが生きているうちに主の来臨がおきる。
パウロが生きているうちに合図の声とともに主が天から下ってくる。
パウロが生きているうちにキリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえる。
パウロが生きているうちによみがえった死人や眠っていた人たちが天に上げられる。
パウロは生きたままで空中で主に会うことになり、そののちはいつも主と共にいることになる[53]。
54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、自らの終末観を表明した[30]。コリントの信者は再臨の時までパウロが生き残ることと、不死なる体に変化する世の終わりが近づいてきているという終末信仰を始めた[注釈 24]。
95年から96年ごろ、著者は不明であるが、ヨハネの黙示録が著され[55]、天にてキリストの支配がはじまったという終末観が表明される[56]。パウロの死んだ年は60年ころとされるので、それから30年くらい経過した時点での新たな予測の表明が為された[注釈 25]。小アジアの信者は天にてキリストの支配がはじまったという終末信仰を始めた。キリスト教的な終末信仰が確立した。
ユダヤ教からのキリスト教の自立
60年代、ヤコブ、ペトロ、パウロが死ぬ。
66年から70年、第一次ユダヤ戦争の結果としてエルサレム神殿が崩壊したころ、ユダヤ教からキリスト教が自立した。
4世紀以降神学論争が激しくなり、教会が分裂をするようになる。暴力を用いる過激な教派が生まれてくる。
301年、アルメニア王国が初めてキリスト教を国教化。
325年、キリスト教徒の暴力抗争を解決するため、ローマ皇帝コンスタンティヌスはニカイア公会議を開いた。それとともに、キリスト教の勢力を利用してローマ帝国の求心力低下の課題解決に図ることもコンスタンティヌスは意図していた。
325年、キリスト教徒の暴力抗争を解決するため、アリウス派は異端の教派とされ追放された。
380年、テオドシウス帝はキリスト教をローマ帝国の国教と宣言した。
381年、コンスタンティノープルで第1コンスタンティノポリス公会議がニカイア・コンスタンティノポリス信条を採択した。
392年、国教となったキリスト教以外の宗教、およびキリスト教の異端教派の信仰活動が帝国内において禁止される[57]。
405年頃、ヒエロニムスが聖書のラテン語訳である『ウルガタ』を完成させる。
5世紀前半、アウグスティヌスが『神の国』を著述。
431年、エフェソス公会議において、ネストリウス派が異端の教派とされて追放された。
451年、カルケドン公会議においてカルケドン信条が採択された。また、単性論が異端の教義とされたが、エジプト、シリアやアルメニアを中心に合性論(正統派とされた側からは単性論の一種と見なされたが、合性論派はその見解を否定した)を支持する教会が多くあったため、各教会で対立主教が立つほどの分裂が生じた(非カルケドン派正教会の分立)。
このように国教となったキリスト教は、キリスト教以外の宗教、およびキリスト教の異端教派の説を切り捨てることにより、キリスト教における一神教的世界観での正統派信仰を確立した。
中世
6世紀前半、ユスティニアヌス1世が『ローマ法大全』を編纂させた。
800年、カール大帝はローマ教皇のレオ3世から戴冠され、以てキリスト教の守護者を自認した。
927年、ブルガリア正教会に五大総主教庁以外で初めて総主教位が認められた。
1054年の東西教会の分裂により、カトリック教会と正教会の分断が決定的となった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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