また、異教との対話時にもキリスト者本人に、聖霊による神の言葉が具体的に顕現することが言われている福音書もある[21][注釈 15]。福音書が作られた当時、聖霊は世の終わりに神から与えられると信じられていた救いの霊とされている。[22]聖霊現象と深いかかわりのあるイエス派運動成立の上で、黙示思想はその重要な背景として存在した[注釈 16]。
キリスト教は、「旧約聖書」[注釈 17]を聖典としていることから、ヤハウェによる天地創造から始まり、原罪とその救済が教義の中心にある。「旧約聖書」という呼び方はキリスト教において「新約聖書」と対応して名づけたもので、ユダヤ教の聖典[注釈 18]の名称を旧(ふる)い約束の意味に変えて用いているものである[24]。
歴史詳細は「キリスト教の歴史」および「日本のキリスト教史」を参照「キリスト教年表」も参照
古代詳細は「原始キリスト教」および「初期キリスト教」を参照
キリスト教はユダヤ教の預言と律法を引き継ぐ[4]。イエスの死後、弟子たちはイエスの教えを当時のローマ世界へと広めていった[25]。
紀元前6年ないし紀元前4年ごろナザレのイエスがベツレヘムに生まれる。
ナザレのイエスが刑死する3年ほど前、ナザレのイエスはガリラヤで宣教を開始する。山上の垂訓の中核に位置するものとして、主の祈りがある[26]。
紀元後30年ごろ[27]ナザレのイエスが刑死した。
詳細は「ナザレのイエス」を参照
イエスの復活信仰の確立
50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し[28]、生ける真の神によって、死んだはずのナザレのイエスが死者たちの中から起こされたことを表明した[29]。テサロニケの信者はイエスは死んでから蘇ったという復活信仰を始めた。
54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し[30]、神によって、死者たちの中から三日目にナザレのイエスが復活したことを表明した[31][注釈 19]。コリントの信者はイエスは死んでから蘇ったという復活信仰を始めた。
70年ころ無名の著者はマルコによる福音書を記し[33]、ナザレのイエスの死後女性信者たちに何らかの事象が起きたことを表明する[34]。空になった墓を見たという記述以降は、後代の加筆であるとされている[35]。南シリアの信者はこれより、イエスの生涯を福音的視座をもって眺めることとなる[注釈 20]。
80年代、無名の著者はマタイ福音書を記し[37]、死人の中からナザレのイエスが起こされたことを表明した[38]。西シリアの信者は、死人の中からナザレのイエスが起こされたという信仰を始めた。
80年代、無名の著者はルカ福音書を記す[39]。イエスの復活信仰が確立した。
ナザレのイエスの死を通しての贖罪信仰の確立
50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、来たらんとしている神の怒りからイエスが救い出してくれることを表明した[40]。テサロニケの信者は神の怒りからイエスが救い出してくれるという信仰を始めた。
54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、イエスは神の御子であり、イエスは私たちの罪のために死んだということを表明した[41]。コリントの信者はイエスは神の御子であり、イエスは私たちの罪のために死んだという贖罪信仰を始めた。また、パウロはコリント人への第一の手紙を記し、アダムにおいてすべての者が死ぬように、そのようにキリストにおいてもまた、すべての者が生きるようにさせられるということを表明した。コリントの信者はイエスによってアダムの罪による自分たちの死が神の御子により蘇りに転換したという信仰を始めた[42]。
80年代、無名の著者はマタイ福音書を記し[37]、イエスはヨセフの子ではなく、聖霊によって身ごもった神の御子であることを表明した[43]。そしてかれの民をもろもろの罪から救うことを表明した[44]。西シリアの信者は イエスはヨセフの子ではなく、聖霊によって身ごもった神の御子であるという信仰を始めた。そしてかれの民をもろもろの罪から救うという信仰を始めた。また、マタイ福音書の記者は、山上の垂訓の中に主の祈りを記した[26]。これにより西シリアの信者は 信仰の行としての毎日の祈りの中で怒りの神とは異なる父なる神の信仰を始めることとなる。信者は個人として主なるイエス・キリストとの関係を深めることとなり、イエスの死を通しての贖罪信仰を深めることとなる。
80年代、無名の著者はルカ福音書を記す[注釈 21]。イエスの死を通しての贖罪信仰が確立した。
主イエス・キリスト信仰の確立
50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、イエスは主としてすぐに来臨してくることを表明した[46]。テサロニケの信者はナザレのイエスは主イエス・キリストであるという信仰を始めた。
54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、イエスは私たちの主なるキリストであるということを表明した[47]。コリントの信者はイエスは私たちの主なるイエス・キリストであるというキリスト信仰を始めた。
80年代、無名の著者はマタイ福音書を記し[37]、ナザレのイエスの父ヨセフは、アブラハム、ダビデの子孫であり、ヨセフの子であるナザレのイエスは予言されていたキリストであることを表明した[48][注釈 22]。西シリアの信者は、イエスはヨセフの子であり、予言されていたキリストであるという信仰を始めた。
80年代、無名の著者はルカ福音書を記す[45]。
90年代、無名の著者は使徒行伝を記し[50]、ステファノが死の直前に聖霊に満たされてイエスが神の右に立っているのを見たことを表明する[51]。信者は神の右にイエスが立っているという信仰を始めた。ユダヤ教に伝承されてきたキリストが主イエスであるという信仰が確立した。
終末信仰の確立
50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、自らの終末観を表明した[注釈 23]。