日本でも多く使用される西暦が、救世主とされるナザレのイエスの生まれたとされた年を元年(紀元)としているように[注釈 10]、キリスト教は中世[注釈 11]ー近代から推移してきた現代文明の根幹の形成に関与している。
中世における国教化されたキリスト教は宗教の自由を認めなかったため、異教(主にイスラム教)との戦いによって支配域を拡大し、土着の宗教に代えてキリスト教を説いた[注釈 12]。異教・異端であるかどうかの判別の基準としては、三位一体の教義が確立していること、イエスの復活信仰が確立していること、ナザレのイエスの死を通しての贖罪信仰が確立していること、主イエスが旧約のキリストであるとの信仰が確立していること等が規定されている[注釈 13]。そうしたキリスト信仰に加え、聖書全体を神よりの霊感を受けて書かれた神の言葉として絶対的に受け止めることもある[注釈 14]。
また、異教との対話時にもキリスト者本人に、聖霊による神の言葉が具体的に顕現することが言われている福音書もある[21][注釈 15]。福音書が作られた当時、聖霊は世の終わりに神から与えられると信じられていた救いの霊とされている。[22]聖霊現象と深いかかわりのあるイエス派運動成立の上で、黙示思想はその重要な背景として存在した[注釈 16]。
キリスト教は、「旧約聖書」[注釈 17]を聖典としていることから、ヤハウェによる天地創造から始まり、原罪とその救済が教義の中心にある。「旧約聖書」という呼び方はキリスト教において「新約聖書」と対応して名づけたもので、ユダヤ教の聖典[注釈 18]の名称を旧(ふる)い約束の意味に変えて用いているものである[24]。
歴史詳細は「キリスト教の歴史」および「日本のキリスト教史」を参照「キリスト教年表」も参照
古代詳細は「原始キリスト教」および「初期キリスト教」を参照
キリスト教はユダヤ教の預言と律法を引き継ぐ[4]。イエスの死後、弟子たちはイエスの教えを当時のローマ世界へと広めていった[25]。
紀元前6年ないし紀元前4年ごろナザレのイエスがベツレヘムに生まれる。
ナザレのイエスが刑死する3年ほど前、ナザレのイエスはガリラヤで宣教を開始する。山上の垂訓の中核に位置するものとして、主の祈りがある[26]。
紀元後30年ごろ[27]ナザレのイエスが刑死した。
詳細は「ナザレのイエス」を参照
イエスの復活信仰の確立
50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し[28]、生ける真の神によって、死んだはずのナザレのイエスが死者たちの中から起こされたことを表明した[29]。