キリスト教の歴史
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概略「キリスト教」、「旧約聖書」、および「新約聖書」も参照

紀元1世紀中頃、イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源である。キリスト教の教義はユダヤ教律法を基礎としたイエスや使徒の言行から発展した。理論的発展を基礎付けたのはパウロ書簡およびヨハネによる福音書である。

新約聖書』のほか、ユダヤ教の聖典でもある『旧約聖書』を教典とする。新約聖書の大枠は、4世紀ごろ確立されたが、旧約聖書の範囲は教派により異なる。一般に旧約聖書と新約聖書のみを聖典とする宗教をキリスト教とみなすが、まれにこの両者と同等ないしそれ以上の価値をもつとされる文書を使用し、かつキリスト教を名乗る宗教も存在する。

現在、キリスト教の教派はおもにギリシャなど東地中海沿岸諸国およびロシア米国に広まる正教会ローマ教皇を中心とするカトリック教会、カトリック教会に対する宗教改革から発生したプロテスタントの諸教派がある。ほかにも、エチオピアエジプトイラクシリアアルメニアインドなどにまたがって信者を有し、その地方では無視できない信徒人口をもつ東方諸教会と呼ばれる教派もある。
諸教派の系統図キリスト教諸教派の成立の概略を表す樹形図。更に細かい分類方法と経緯があり、この図はあくまで概略である。
古代「原始キリスト教」、「初期キリスト教」、および「古代末期のキリスト教」も参照
初代教会あるいは原始キリスト教「ペンテコステ」および「初代教会」も参照

十二使徒イエス・キリストによって使徒として任命されていたと聖書に書かれてあり、教会の信仰、立場、伝承は、自らの始点の一つをエルサレム教会での「聖霊降臨」におく。これがキリスト教の立場である[1][2][3]

批判的学者の立場をとれば、「キリスト教」の発生時を決定するのは難しい。今日の学問は、イエス自身ユダヤ教と分離する意識はなかったと想定している。イエスはキリスト教の基盤を用意した人物であり、教会の直接の起源は、イエスの死後、その復活を目撃したとされる使徒の下に集った共同体と推定される。聖書に批評的な立場の学問では、初期の教団がどの時点でユダヤ教と独立な宗教としての「キリスト教」の自覚をもった時点について、多くの者はエルサレム神殿崩壊の後と推定する。当時はイエス自身の活動も含めて、ユダヤ教の一派とみなされていたと推定され、この見地から、当時の教会を「ユダヤ教ナザレ派」と呼ぶこともある。この最初期にすでに複数のキリスト教集団が存在していたことが、パウロ書簡などから確認できる。そこで指導的立場にあったのは、イエスの直接の弟子と親族を指導者として形成されたエルサレム教会であった。
エルサレム教会とアンティオキア教会

批評的な学者は、エルサレム教会とアンティオキア教会が「対立」していたと主張する。エルサレム教会は、禁欲主義の下に財産を共有して生活をする一種の修道的な教団で、布教活動、ましてエルサレムを離れての活動には積極的でなかったと推測される。しかし、ユダヤ教主流派による迫害を契機に各地に離散したヘレニスト(ヘレニスタイ:ギリシア語使用者)が精力的な伝道を展開し、ユダヤ人のみならず異邦人の改宗者が多数加わり、アンティオキア教会が設立されて、一定の力を持ち始めるようになると、エルサレム教会側も黙っては見過ごせず、対外的な活動を余儀なくされたと思われる。批評的な学者は、かならずしもヘレニストではないと思われる新約聖書筆者もギリシア語で著述しているのはこのためであると主張している。

当初エルサレム教会の最高指導者であったペトロは、他の使徒とともに逮捕された。代わりに指導者になったのが、イエスの兄弟または親戚と考えられている「主の兄弟」ヤコブである。
イエスの兄弟ヤコブの仲介と管区の分割

批評的な学者の主張によれば、イエスの兄弟ヤコブはキリスト教共同体の最長老格として、エルサレムで使徒会議を主宰し、異邦人への文化適合を重視するアンティオキア教会と、律法の厳格な遵守を重視するエルサレム教会の間の激しい対立を仲介し、妥協案を提示して解決を図った。その内容は、異邦人改宗者は「しめ殺した動物偶像礼拝、不品行」を忌避すれば、割礼を含む他の律法の遵守は免除されるというものである。

この妥協案成立以降、エルサレム教会とアンティオキア教会はそれぞれ別個に管区を設置し、相手の管区に対しては干渉や越権行為を行わないこととした。パウロの用語で「自分の割り当てられた範囲内で誇る」と言われる管区の独立性と自治性は、その後設置されたアレクサンドリア、コンスタンティノープル、ローマの各管区の在り方を基礎付ける原則となり、さらに、古代教会における教区裁治権の前提となった。正教会では今もこの主教区の自治と独立を互いに尊重保持している。
ユダヤ教からのキリスト教の自立

紀元60年代のヤコブの処刑、続くペトロやパウロの刑死、さらに第一次ユダヤ戦争66-70年)の結果としてエルサレム神殿が崩壊した後で、(現在のユダヤ教主流派に近い)ファリサイ派がヤムニア会議で、ヘブライ語にルーツを持つもののみを聖典とすることが決定され、ギリシア語の七十人訳聖書はキリスト教徒にとってはこれも(旧約)聖書正典の一つとされるのに対し、ユダヤ教では「外典」となり[注 1]、完全に袂をわかつことになった。


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