キリシタン版
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京都版に限っては例外で、整版説なども唱えられたが、木活字による印行だという説が支持されている[28]

活字の製作について、欧文活字についてはパンチから製造されたことは諸家に疑いがない。日本語活字については、欧文と同じと考え特に言及されず、またパンチであると支持するものもあり[29]、原字を木の駒に彫ったとする説もあったが[30]、当初はヨーロッパで製作した活字以上のものはないことがあきらかとなり、自家製造が可能になったのはイタリック活字製造の報がある1594年以来と考えられるようになった[31]。欧文活字は天地幅を一定にするが、日本語活字に応用するときにそれを回転し、左右幅を固定した。これにより左右よりも天地の大きさの変動が激しい筆写体の再現が容易になるのである。『太平記』などの小型活字本などには木活字による補充があることが知られる[32]

印刷紙は日本国内刊行のものはおおむね和紙の楮斐紙、日本国外刊行本も多くのものは日本国外に産せられた紙である[33]
書目

キリシタン版は、湮滅したものもあり、また前述の通り論者によって定義が異なるし、発見し得た点数も異なる。レオン・パジェス (Leon Pages) の最初の書誌に掲載された点数は21種で、アーネスト・サトウはそのうち7種を確認しさらに7種を付け加えた[34]。日本において印行されたものをきりしたん版と呼ぶ富永らの定義に遵うと、現在キリシタン版として呼ばれているのは32点である[35]。刊行年順に書目を一覧する(ただし書名は通称によるものも含まれている)[36]。また、ヨハネス・ラウレス (Johannes Laures) の“Kirishitan Bunko”の版本一覧もよく参照される。書名言語用字刊行年刊行地備考
サントスの御作業のうち抜書日本語ローマ字1591加津佐現存する最古の完本である。
ドチリナ・キリシタン日本語ローマ字1592天草
ヒデスの導師日本語ローマ字1592天草
平家物語(FEIQE MONOGATARI[37] )日本語ローマ字1592天草伊曽保物語・金句集とともにともに編まれたものである。河合・村本: 134-6。大英図書館所蔵。
伊曽保物語日本語ローマ字1593天草
金句集日本語ローマ字1593天草
拉丁文典日本語・ラテン語・ポルトガル語ローマ字1594天草
拉葡日対訳辞典日本語・ラテン語・ポルトガル語ローマ字1595天草
心霊修業ラテン語ローマ字1596天草
精神修養の提要ラテン語ローマ字1596
コンテンツス・ムンヂ日本語ローマ字1596
ナバルスのざんげ・告解簡略提要ラテン語ローマ字1597
落葉集日本語国字1598
サルバトール・ムンヂ日本語国字1598
ぎや・ど・ぺかどる日本語国字1599
ドチリナ・キリシタン日本語ローマ字1600
和漢朗詠集日本語国字1600朗詠集のほか、九相歌并序、無常、雑筆抄、実語教その他を収める。大河内: 24。
おらしよの飜譯日本語国字1600長崎
どちりな・きりしたん日本語国字1600長崎
金言集ラテン語ローマ字1603
日葡辞書日本語・ポルトガル語ローマ字1603-4長崎
日本大文典日本語・ポルトガル語ローマ字1604-8長崎
サクラメント提要ラテン語(日本語)ローマ字1605長崎
スピリツアル修業日本語ローマ字1607長崎修業ではなく修行が正しい。福島 (1973): 51。
聖教精華ラテン語ローマ字1610長崎
こんてむつす・むん地日本語国字1610京都
ひですの經日本語(ラテン語・ポルトガル語)国字1611長崎
サルペ・レジイナ、十戒他断簡日本語国字
祈祷文断簡日本語国字
「どちりいな・きりしたん」日本語国字
「ばうちずもの授けやう」日本語国字
太平記抜書日本語国字

成立について

諸本の成立を巡ってはさまざまな問題を見いだすことができる。たとえば、キリシタンが遺した写本資料からどのように、またどれをもとにして出版したのか、同じ原書に対してローマ字本と国字本がある場合どちらの内容が先行し又どのように違うか、ということが考えられる。

翻訳に当たったのは日本人である。刊記と会士の書簡により『サントスの御作業のうち抜書』の訳者は養方(甫)軒パウロとその子ヴイセンテとされる。このなかの一伝には日本語文字による写本とローマ字による写本とがあり、それぞれがどのように成立したかという問題は資料の欠如もあり考究が難しい[38]。また、『太平記抜書』においては、山田孝雄新村出などが太平記流布本系からの単純な抄出と看做し、のちに底本として慶長版古活字本の一本に特定する研究がなされたが、宮嶋一郎が反キリスト教的表現の改変を指摘し、『抜書』についての編者の存在を主張した[39]
研究史

イエズス会が日本で出版を行っていたことは、宣教師が本部にしばしば報告していたことでもあってよく知られており、その活動やいくつかの書は教会史においてもしばしば触れられるところであった。また、19世紀にヨーロッパにおいて日本学が勃興し、ランドレス (Ernest Augustin Xavier Clerc de Landresse) によるロドリゲスの『日本小文典』仏訳(1825年)が出ると、大いに用いられ、ヨハン・ヨーゼフ・ホフマンの『日本文典』(Japansche Spraakleer. Leiden: Brill, 1868.) に影響を与えたほか、レオン・パジェスによる『日葡辞典』仏訳(1862?68年)などの呼び水となり、バジル・ホール・チェンバレンを通じて、日本における近代の日本語研究にも大きな影響を与えた(杉本)。

キリシタン版が、出版活動として検討されるようになったのは、パジェスによる『日本図書目録』(Bibliographie Japonaise ou catalogue des ouvrages relatifs au Japon. Paris: Benjamin Duprat, 1859.) に取り上げられたことをはじめとしよう。その後、アーネスト・サトウがヨーロッパ各地に残るキリシタン版を調査して『日本イエズス会刊行書誌』(The Jesuit Mission Press in Japan, 1591-1610. London: privately printed, 1888.) を著し、研究の基礎となった。また、チェンバレンによる日本語史資料としての先駆的紹介はあったものの、本格的な研究は新村出の登場を俟ってからであった。

また、幕末のころ、ベルナール・プティジャンは、ヴァティカンやフィリピンなどの各地に残されたキリシタン版を再版している。
言語学的研究

新村は西欧を外遊し、さまざまな資料を紹介するとともに、書誌的事項の整備など諸研究の先駆をなした。新村はこれらが活字版であるとするサトウの論を補強するとともにキリシタンの文献を日本語史の資料として扱い、キリシタンの文献が有用であることを示した[40]。主に版本の研究が中心だったのが写本にも独自の問題が見いだされるようになったのは土井忠生や福島邦道らの諸研究によるところが大きく、写本との比較により、キリシタン版の日本語ローマ字本は整理された規範的表記であり音韻の実態と離れていることも明らかにされた[41]


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