キックボクシングを先に興行していた野口修とTBSは、商道徳を逸脱して参入してきた協同と日本テレビに怒りを露わにしていた[12]。協同は児玉誉士夫の後ろ盾を笠に着て[3]、選手の引き抜きや興行戦争を仕掛け[13]、挙句に会場を使用させないように営業妨害している[13]。野口は本来なら「キックボクシング」を商標登録できていたはずが[14]、児玉に「相応のポストを用意するから、協同の傘下に入って協力しながらやってはどうか」と説得されていた[15]。野口は父親の時代から児玉と繋がりはあったが、児玉は協同のビジネスが拡がれば、自分の懐に更なる大金が転がり込むと考え、野口を従わせようとする[16]。自主独立にこだわった野口だが[15]、永島達司・内野二朗・嵐田三郎ほど児玉と近くはなく[17]、企業力も協同に及ばないため[15]、児玉に逆らってまで商標登録をできなかった[15][18]。
1970年には「株式会社キョードー東京」に社名変更し、「ロック・カーニバル」シリーズを企画。ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ、シカゴなどの公演も成功させる。しかし当時のロック・スターとロック・ファンは非常に過激だった。1971年、グランド・ファンク・レイルロードの後楽園球場での公演では観客が興奮で暴動寸前になり、そのあと来日したレッド・ツェッペリンの破天荒な振る舞いには広島公演で内野が倒れてしまう。ついには「コンサート会場に爆弾を仕掛けた」という悪戯電話のせいで入場者のバッグ・チェックまですることになる。バッグ・チェックの不快な光景が直接のきっかけとなって内野はエルトン・ジョン公演を最後にロック・コンサートから手を引く。これ以降、ロックスターの招聘は永島や内野とも親しかった有働誠次郎のウドー音楽事務所が扱うようになる。
1972年からは「ラブ・サウンズ」をテーマに、スポンサーや放送局、レコード店ともタイアップしてシリーズ化。ザ・ベンチャーズ、ニニ・ロッソ、ポール・モーリア、カーペンターズなどを招聘。全国の主要都市にキョードーのブランチを設けてキョードー・ネットワークを展開する(関連会社参照)。
昭和50年代からは、外タレだけではなく、日本人歌手の公演も手掛けるようになる。1976年に帰国した朱里エイコの全国ツアーを始めとし、1977年の因幡晃、1978年以降、アリス、松任谷由実、矢沢永吉、そして日本内外でのチャリティ・コンサートも企画、成功させている。1986年より、内野に代わって嵐田三郎が代表取締役を務める。
キョードー東京は上記の他にも、ダイアナ・ロス、スティーヴィー・ワンダー、レイ・チャールズ、ボストン・ポップス・オーケストラ、マイケル・ジャクソン、マドンナ、ライオネル・リッチー、ポール・マッカートニー、ジャネット・ジャクソン、ケニー・G、パット・メセニー・グループ、ホイットニー・ヒューストン、マライア・キャリー、ブリトニー・スピアーズ、バックストリート・ボーイズ、ダニエル・パウター、などの海外アーティストの招聘公演を行い、小田和正、谷村新司、井上陽水、南こうせつ、SMAP、安室奈美恵、浜崎あゆみ、宇多田ヒカル、BoA、倖田來未、L'Arc?en?Ciel、EXILE、藤井フミヤ、河村隆一、T.M.Revolution、葉加瀬太郎、押尾コータローなどの国内アーティストのコンサート、K-1、WWE、X-TRAIL JAM、世界フィギュアスケート選手権などのスポーツ、blast、CHICAGO、Movin'out、RENTなどの演劇、徳島市阿波おどり等のイベント委託[19]、ミュージカル招聘などもこれまで数多く手がけている。