キューバ危機(キューバきき、(英: Cuban Missile Crisis、西: Crisis de los misiles en Cuba、露: Карибский кризис)は、1962年10月から11月にかけて、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることが発覚、アメリカ合衆国がカリブ海でキューバの海上臨検を実施し、米ソ間の緊張が高まり、核戦争寸前まで達した一連の出来事のこと。
日本語呼称にはばらつきがあり、英文通りに「キューバ・ミサイル危機」や後述の理由により「第二次キューバ危機」ともされる。 1962年夏、ソ連とキューバは極秘裏に軍事協定を結び、キューバに密かに核ミサイルや兵員、発射台、ロケット、戦車などを送った。アメリカは偵察飛行で核ミサイル基地の建設を発見、直ちにキューバを海上封鎖し、核ミサイル基地の撤去を迫った[注 1]。一触即発の危険な状態に陥ったが、当時のケネディ大統領とフルシチョフ第一書記とで書簡をやり取りし、最終的にソ連が核ミサイルを撤去してこの危機は終わった。また、これを機に米ソ間でホットラインの開設がなされ、不測の事態による軍事衝突を防ぐための対策が取られた。 危機の期間に定義があるわけではないが、アメリカ軍が空中偵察でミサイル基地を発見した1962年10月14日、または大統領にその情報が入った10月16日から、フルシチョフがミサイル撤去を伝えた10月28日までとすることが多い[注 2]。ただし、実際にソ連が核ミサイルをキューバから撤去し、アメリカが封鎖解除したのは11月21日である。 「キューバ・ミサイル危機」とも呼ばれ、またこの1年半前の1961年4月の「ピッグズ湾事件」を「第一次キューバ危機」と呼び、この1962年10月の危機を「第二次キューバ危機」と呼ぶ場合がある。 1959年1月にキューバ革命で親米軍事独裁のフルヘンシオ・バティスタ大統領を打倒し、首相の座に就いたフィデル・カストロは、革命の1ヶ月後にバティスタ派の人々に対する簡易裁判を行い、即時に600人を処刑したことから、彼がアメリカに対してどのような外交姿勢を取るのか懸念されていた。このような懸念に反してカストロは「アメリカ合衆国に対して変わらず友好関係を保つ」と表明し、早くも4月にワシントンD.C.を訪問し、アメリカ政府に対して友好的な態度を見せるとともに、革命政権の承認を求めた。 しかし、カストロからの公式会談申し入れを受け入れたドワイト・D・アイゼンハワー大統領は、CIAより、権力掌握後のカストロが国内でバティスタ派の有力者を処刑したり、親米的な地主からの農地の強制接収による農地改革を推し進めていることを根拠として「カストロは共産主義者である」との報告を受けており、結果「かねてから予定されていたゴルフに行く」との理由で公式会談を欠席した。 さらにアイゼンハワーに代わって会談したリチャード・ニクソン副大統領との会談において、カストロは「アメリカとの友好関係を保つ」と言いながらも、彼から「革命後の共産主義の影響拡大」、「反革命派の処刑」、「自由選挙の未実施」といった点を問い詰められて怒りだす寸前になる始末であった[1]。このようなカストロの態度を受けたニクソンは、アイゼンハワーに「カストロは打倒すべき人物で、キューバ人亡命者部隊を編成してキューバに侵攻すべきである」と進言した[1]。
概要
経過
キューバ革命1959年の訪米時のカストロ首相
キューバとソ連の接近ジャン=ポール・サルトルと妻のシモーヌ・ド・ボーヴォワールと話すゲバラ(1960年)